先生、息の仕方を教えてください
初夏。放課後、いつも通り保健室に行くと、教頭先生と入れ違いになった。教頭先生も保健室を利用するんだー、なんて思いながら中に入ると、雨谷先生が何やら難しい顔をして立っていた。
不思議に思って近付くと、デスクの上に写真が置かれているのが見えた。女性の写真だ。ぱっちりした目にぽってりした唇。綺麗な着物姿で、優しく微笑んでいる、そんな写真だった。
これが何なのか、十七年しか生きていないわたしでも分かる。
「……先生、お見合いするんですか?」
聞くと雨谷先生は眉間に皺を寄せて、広げっ放しだったお見合い写真をぱたりと閉じる。
「……教頭の姪っ子さんだとよ。会うだけでもって頼まれてな」
そしてため息まじりに、冷蔵庫からいつもの缶コーヒーを取り出す。
「……教頭先生に、全然似てませんね」
平静を装ってそう答え、にっこり笑って見せる。けれど、内心はイライラもやもやして、今すぐ屋上までダッシュして、見合いってなんだー! と叫びたい気分だった。
「……お見合い、するんですか?」
「見合いっていうか、会うだけ会うことになりそうな雰囲気だな」
「へぇ……」
「まあ断ったからってクビになるわけでもないし。そういう圧力がない、完全に個人的な話だったから、教頭もわざわざ放課後に来たんだろうし」
雨谷先生がこういう、完全に個人的な話をしてくれるようになったのは嬉しい。わたしを放課後の話し相手くらいには思ってくれているんだろうと実感できる。けど、お見合いなんて、してほしくない。
雨谷先生はわたしより十歳も年上で、十年分の経験値があって。その十年の間に、例えば毎年一人でも十人、二年に一人でも五人の人と付き合ってきたということになる。それは分かっているけれど、やっぱりもやもやする。
わたしはすっかり言葉を失って、ただただ閉じられたお見合い写真を見つめている、と。
先生は「なんつー顔してんだ」と言って、ふっと笑った。この数ヶ月で、一番柔らかい表情だった。
「見合いはしない。今はまだやりたいこともあるし、結婚は考えられないからな」
「……本当ですか?」
「ああ」
「……約束ですよ」
「まあ、廣瀬に俺の見合いを止める権利なんてないけどな」
言いながらも先生は、わたしに向かって手を伸ばす。そして右手の小指を立てて見せたから、わたしも素直に手を伸ばして、先生の小指に自分のそれを絡めた。瞬間、また息の仕方を忘れてしまった。
初めて触れた先生の手は、大きくて、ごつごつしていて、温かい。
この時間が、永遠に続けばいいのに。このまま幸せな気持ちだけに満たされて、恋をしていければいいのに。
そんなことは無理な話で。きっとそのうち、もっとイライラもやもやしてしまう日がやって来る。でも、嬉しいことも悲しいことも、イライラももやもやも、全部ひっくるめて恋だ。
十歳も年上の先生に恋をするという道を選んだのは、他でもないわたし。高校最後の一年、この人に恋をすると決めたのもわたし。
だから明日もし泣くことになっても、ぼろぼろに傷付けられたとしても、わたしは高校生最後の日まで、この人を見つめる。
だから先生、明日こそは、息の仕方を教えてください。
(了)