転職先の副社長が初恋の人で餌付けされてます!
 拓武のマンションはこじんまりとしたワンルームだった。玄関を開けてすぐにキッチン。六畳半ほどの洋室には、ベッドと壁に掛けた大型テレビ。サラウンドスピーカー、照明は間接照明で、パーソナルチェアにオットマンと、オーディオを楽しむ事と寝ることに特化したような部屋だった。本人が寝るために帰るだけ、と、言うだけあって、生活感があまり無い。
 それでも都心の物件なのだから、家賃はおそらく李江の部屋の倍はするのだろう。

「何か飲む? コーヒーか、ミネラルウォーター、あと、ビールもあるけど」

「あ、おかまいなく」

 所在なげに立っている李江に、拓武は唯一の椅子を勧め、座らせた。

「俺が普段使ってる椅子で悪いけど、座り心地はいいから」

 拓武は、リモコンなどがのっていたサイドテーブルにミネラルウォーターのペットボトルを置いた。

「えっと、シャワー、使う?」

「いえ! 本当に、始発で失礼しますから、どうかおかまいなく」

 少し声を裏替えらせながら、李江が答えた。できる限り平静を装おうと努力はしているのだろうが、緊張しているのは拓武にも伝わっている。

「あの、別に、変な意味じゃない、から。……ゴメン、じゃあ、俺、ちょっとシャワー使わせてもらうから、適当にくつろいでてて?」

 BGMを適当に選び、拓武は部屋から出て行った。もしかしたら、李江が一人になれるよう配慮してくれたのかもしれない。

 一人になって、少し落ち着いたが、李江は両腕で膝をかかえこむようにして丸くなった。タクシーで帰れなくはなかったけれど、そんな時に限って空車は来ず、タクシー代も一万円を少々超える金額を覚悟しなくてはならない。ネットカフェも、一番近い繁華街はあまり治安がよいとはいえず、一人でふらつく事に不安もあった。とはいえ、一人暮らしの男性、しかも直接の上司では無いにしろ副社長の部屋に、のこのこと着いてくるのはあまりにも軽率だったのでは無いか。
 思わず、李江は、今日の下着は上下揃っていただろうか、などと思いだし、真っ赤になってぶんぶんと妄想をはらうように首をふった。
 自分を落ち着かせようと、深呼吸をして、手足をのばす。拓武が言うようにパーソナルチェアの座り心地はとてもよい。音響も、この椅子に併せて設置しているのだろう。透明感のあるBGMが、耳に心地よかった。

 拓武がシャワーを浴びて、部屋に戻ると、李江はパーソナルチェアで眠ってしまっていた。
 胎児がそうするように体を丸めて眠っている様子は無防備で安らかだった。幼さの残る寝顔を愛らしく思いつつ、ふわりと毛布をかけ、床に座りこみ、しばらく見つめながら、拓武も、そのまま眠り込んだ……。
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