内実コンブリオ
「咲宮 華さん」
声がした後ろを振り返る。
自分の後ろの人物、それはもう口元だけでよくわかる。
自分の名前を呼んだ人の机の上には、英語の授業で使う教材一式が置いてあった。
懐かしい風景が、人物が、嬉しくなる。
当時は地獄の様な日々だった。
ということは、これは夢だ。
じゃあ、せめて彼の顔を拝んでおきたい。
自分の夢なら、何をしたって構わないはず。
と、思うが、どうしても見ることは出来ない。
その時、彼は教科書を開き、何かを言おうとした。
「咲宮 華さん、俺と―
ああ、夢だった。
その証拠に今、目の前には一人暮らしをしている自分の部屋の壁だけが見えていた。
もう少しあそこに居たかった、という惜しさと、戻ってこれたことにかなりホッとしている気持ちがあった。
本当に懐かし過ぎて、恐ろしいくらいだ。
何故、今になってあんな夢を見たのか。
不思議と自分の名前を何度か呼んだ彼の声は、ずっと残っていた。
あの人は、こんな声だったかな。
ただ一つ、悲しくなったのは、自分はもう、あの人の顔を覚えてはいなかった。
忘れられないはずなのに、思い出せない。
「さむっ…」
暖かく居心地の良過ぎる楽園を諦めて、現実の寒さと向き合うことにした。
寒いのは、現実だけではないのかも、と感じた。