マリンシュガーブルー
「待って!」
港の道を行く男の背に叫んだ。黒いジャケットの背中に。彼が立ち止まった。
港のライトが照らす道を美鈴も駆けていく。
「待ってください」
彼の目の前までやっときた。
「美鈴さん」
初めて彼に呼ばれ、美鈴は驚く。
どうして私の名前を? 聞かなくてもそんな美鈴の表情を彼は読みとってくれる。
「マスターがそう呼んでいたのを聞いたことがあったので。営業中に『姉さん』と呼ぶわけにはいかないからなのでしょう。自分はあなたの名が知れて嬉しかったけれど」
「私は、あなたの名を知らない!」
「知らなくていいでしょう」
彼がなにもかも諦めたような笑みを見せた。
「いままで、ありがとう。あなたの声に癒されていました。あなたと少しでも話せるのもとても楽しみだった。ここ最近いちばんの、俺の拠り所でした」
行っちゃう、この人が行っちゃう。美鈴の中に、あんなに格好いい男の姿を焼き付けて、匂いを記憶させて行ってしまう!
「お客さん、戻ってきたようで安心しました。もともと、あなたと弟さんがつくり出す爽やかな匂いと温かな空気はどなたにも伝わっていたのでしょう。これからも大丈夫ですよ」
事件後も見守ってくれていた? この人がどんな人かなんて、もう……。美鈴は彼の目の前でうつむき、そっと呟く。
「どうしたらいいのですか。私、困ります」
彼が首を傾げる。
「どういう意味で?」
「どうしたらいいかわからなくて……、これが最後だなんて」
頬から熱い涙が流れた。
「これが最後だなんて、いや!」
彼がとてつもなく驚き、息引いた様子が美鈴にも伝わってきた。