マリンシュガーブルー
一晩だけ。そう思ってきたけれど、女を連れ込むことなど想定外だった男の部屋に、女と隔てるためのものは準備されていなかった。
なんの準備もなく愛しあってしまうことをわかっていて、それでも望んで。後先なんか考えずに。ふたり一緒に越えてしまった。
なまぬるい潮風がベッドにいるふたりを静かに撫でていく。
「タケルって、どんな字を書くの」
トラの尻尾を撫でていた美鈴へと、彼が肩越しに振り返る。
「尊の字、一文字でタケル」
名字はと聞けなかった。聞いたらもしかして、なにもかもがわかってしまって二度と近づけなくなる気がした。いままで同様に彼からも、何も言わない。
「うちのお料理、食べに来てくれてありがとう。弟がいつもあなたのことを気にしていたの」
「彼の料理は、俺のような中年でも口に合ったからね」
彼がにこりと笑った。あれ、どこかで聞いたことあると美鈴は思った。
「中年って……。尊さん、幾つなの?」
「はは、言いにくいな。美鈴さんの肌が若くて綺麗で堪らなくて……、俺には勿体ないけど、我慢できなかった。そんな歳だよ」
「え、わかんない」
彼がちょっと楽しそうに笑って、背中にいる美鈴へと振り返り、そっと抱き寄せてくれる。
店ではひとつに束ねていた黒髪をほどいているので、しっとりと肩先まで流れている。その毛先を彼が長い指に巻きながら、美鈴の目を覗き込みながら言う。
「あなたの身体が、若くて綺麗に感じる。黒髪も、触り心地がいい」
そういいながら、また美鈴の肌にそっと触れてくる。そしてまるで美鈴になにも言わせないよう口封じをするようにキスをされる。
またベッドに押し倒され、彼が美鈴の上に重くのしかかった。
彼の目がまた、美鈴の真上で真剣に輝く。
「女を、こんなに欲しいなんて、久しぶりだったよ」
そして彼が付け加えるように小さく呟いた。『40だよ』と。また何かを聞き返しそうな美鈴の口元が塞がれる、息苦しいキスを何度も繰り返され、美鈴も彼のことを知りたい気持ちがなくなっていく。
「……尊、さん」
久しぶりだという男の勢いは、夜遅くまで続いた。
美鈴の柔らかな皮膚に、彼は何度もキスをして、痕を残して。汗ばんだ肌を優しく愛してくれた。