マリンシュガーブルー
夕に蜩(ひぐらし)の声。まだ夏の気配はあるけれど、夜になるとどことなく秋の気配。
そろそろ閉店。今日もちゃんとオレンジティーを仕込んでおいたし、あともうちょっとで飲める。あとひと息! 最後のお客様の精算待ち、レジカウンターで美鈴はふと思う。いつのまにか『SV』という仕事への未練のようなもの、なくなっちゃったなあと。
弟に店の回転と店内管理を任されて、姉ちゃんがいると料理に集中できると言ってもらえて、顔なじみのお客様も増えて……。港の匂いがする海が見える窓辺を眺められる楽しみとか、まだ身体の奥で熱いままくすぶっている恋を想ううちに、『OL時代』が過去のものになっていくことに気がついた。
弟は料理人だけれど、莉子ももともとはパティシエの卵。フロア接客をしながら、デザートも手がけてくれていた。出産を終えたらまた勉強をして、お店のデザート担当になると張りきっている。
そんな弟夫妻を見ているうちに、美鈴にも芽生えてきたもの。『私はコーヒーや紅茶の入れ方を覚えたいな』だった。
既に下調べもしていて、この街の有名な老舗喫茶が『講習会』を定期的に開いていることを知ったので、それにまず参加してみようと申し込みをしたところだった。
弟たちも、美鈴が彼のことで落ち込んだりせずに、新しいことに興味を持ったと安心したようだった。
でも。美鈴の中ではちょっと違う気持ちがある。
コンタクトセンターでの『SV』という管理職が、自分の人生で獲得したもののなかで最高のものだと思っていた。センター長という出世を見込まれたかっこいい恋人もいたから、女としてもいちばん輝いていると思っていた。お洒落もして、女子力最前線を追うように楽しんでもいた。