元ヴァイオリン王子の御曹司と同居することになりました
駅は、会社のすぐ近く。
早足で歩きながら、常務のことを思い出していた。
……昔は、あんな風に気を回せる人ではなかったのに、成長するものだな。
改札を抜け、階段を下り、ちょうど目当ての時刻の電車に乗れた。
ここから約50分。乗り換えなしで自宅最寄り駅まで行けるのはありがたい。
スマホにイヤホンをつけ、今度の演奏会でやる曲を再生する。
ベートーヴェンの交響曲第5番『運命』。
常務……出海君と初めて弾いたのがこの曲だった。
吊り革につかまり、窓の外を見ながら、出海君との出会いを思い起こす。
出海君と出会ったのは、実は大学が初めてではない。
小学生の時、ジュニアオーケストラ。
私が6年生、出海君が5年生。
私の実家は、今住んでいる県の県庁所在地にある。小学生高学年から高校生までが入れるジュニアオケがあり、私も小4からそこに入っていた。母親がクラシック好きでヴァイオリンは小1から習わされていたんだけど、あまりにも練習しないので、オケに放り込めば練習せざるを得ないだろうと、半ば強制的に入らされたのだ。きっかけは強制的だったとはいえ、学校とは違う友達ができて、なかなか楽しいオケライフを送っていた。
そのジュニアオケは毎年8月に定期演奏会を開いているのだけど、出海君は7月に入団してきた。そう、本番1ヶ月前。
都会の雰囲気が漂っていて、顔はきれいだし、頭良さそうだし、今まで会ったことのないお坊ちゃまタイプだった。
ヴァイオリンもとても上手だった。お稽古ごとではない、大人びた、本格的な弾き方。
おまけに、分数サイズのヴァイオリンは量産品ではなく、高そうだった。
方言の訛りが飛び交う中で『僕』という一人称を使って標準語を話し、ヴァイオリンもうまくて、家はお金持ちらしい彼は、女の子の間でそのうち『王子』と呼ばれるようになった。
なるほど、おとぎの国の王子様。
ファンタジーの世界の人。
近寄りがたい別世界の人だ、と私は遠くで見ているだけだったから、そのネーミングにえらく納得した。