イジワルなくちびるから~…甘い嘘。【完】
そこに居たのは、指導してくれているおじいちゃん先生ではなく見た事もない青年だった。
開け放たれた窓から吹き込んでくる風に柔らかそうなダークブラウンの髪が揺れ、チラリと覗くうなじが妙に色っぽい。
「あ……」
子供ながらに男の色気というモノを感じ、心臓が大きく高鳴って呼吸をするのも忘れてしまいそうになる。
暫くの間、キャンバスに筆を入れている男性に見惚れていたのだけど、彼が私に気付いたようで筆を止めた。
私は慌ててドアの後ろに身を隠し遠慮気味に部屋の中を覗き見る。するとゆっくり振り返った彼が微笑んで絵筆を持った右手を軽く上げたんだ。その笑顔は真夏の太陽より眩しく見えた。
「ここの生徒さんだね?」
「は、はいっ……」
低く耳ざわりのいい声にドキドキが加速していく。
「あの、先生は?」
上ずった声で訊ねると立ち上がった男性が近付いてきて、私の目の高さまで体を屈める。
「ここで指導している先生が病気で入院したそうでね。退院するまでの間、俺が臨時で指導することになったんだ。宜しく」
そう言って大きな手で私の頭をクシャリと撫でた。
父親以外の男性にそんなことされたの初めてだったから、思わず一歩後退り顔を強張らせる。それを見て彼が切れ長の目を細め、またクスリと笑った。
「お前、可愛いな」
「えっ……」
初めて経験した何かが弾けたような感覚……
そう、恋に落ちたのは、きっとこの時。十三歳の私は、名前も素性も知らない大人の男性を好きになってしまったんだ。