恋が始まる前に〜『あ』で始まる言葉を言いたくて〜❤️
『高級なレストランなんていいよ。指輪もなくていいって』
徹の額に滲んだ汗を見ていたら、全てを許せる気がしたし、この人ならこの先も信じられる、そんな気がした。
プロポーズされたことは、今年30歳を迎えた女にしたら本当に嬉しい出来事だ。
プロポーズされる場所がどこであろうが関係ない。気の利いた明るい色の花束も、綺麗なダイヤの婚約指輪も、今は無くても構わない。
もちろんあった方がいいが、別段こだわる部分でもない。
『良かったあ。翼ならそう言ってくれるだろうと思ってたよ』
缶ビールを両手に持ったまま、ぎゅっと抱きしめられて徹の肩に顎を乗せる。
本当に愛されてるんだなって、そんな風に思えて最高に幸せな時間だった。
だが、幸せな時間というものは決して止まらないものだ。神様は、すぐに、その時計の針を先へと進めたがる。
抱きしめながら徹が言った。
『高級レストランなんて翼っぽくないし、アクセサリーもさ、ほら翼って全然つけないもんな?』
『?』
なんだ?それは…。
徹が言ったとおり、普段アクセサリーの類は身につけていない。
だが、あくまでもそれは、オシャレを楽しむアクセサリーの話だ。
婚約指輪とか結婚指輪となれば、また話は別だ。オシャレとか関係なしに身につけるべきものだと、そこらへんは古風に考えている。
『俺もさ、どうせ普段しないなら高い婚約指輪なんかいらないと思ってたんだよ。きっと、結婚したら指輪なんてうざいだけだろ? 普段つけないんだからさ、俺も煩わしくなって結婚指輪なんか外すだろうしさ』
プロポーズという一大イベントを無事に終えた安心感からだろうか、徹は翼から離れた途端にいつも通り饒舌になっていく。
『指輪なんかなくていーよな?必要ないだろ。 あー、俺さぁ、喉がすっごい渇いてたんだよな。サンキュー』と勝手に言って徹は翼が持っていた缶ビールを受け取り、おもむろにプルトップを開けた。
喉を鳴らしながら美味そうにビールを飲む徹。
そんな徹を見ながら翼もプルトップを開けた。
たまに…。
いや、本当は……
徹と一緒にいると『アレ?』『そうだっけ?』と思うことが今までにも、結構な割合でよくあった。
でも、なんとなく、そんなのは些細なことだろうとやり過ごして、余計な疑問には耳を塞ぎ、時には目まで閉じてきた。
恋人とはいえ、所詮は赤の他人なのだ。
相手の全てを理解出来なくて当たり前。きっと、他のカップルだってそんな感じに違いない。
世の中に存在するカップルなんて、私たちと大差無いはずだ。
人生にたくさんある色々な出来事を、自分の望む通りにしようだなんて、馬鹿げている。
きっと、それは自分のワガママになるだけだ。