今宵、皇帝陛下と甘く溺れる
はじまり、はじまり
ゆらり、蝋燭の火が燃える。頼りない光が一瞬大きな影を作り、男は堪えきれず身震いした。彼には、それが恐ろしい化け物に見えて仕方がなかった。
なぜ自分が跪いているのかと、男は震えながらまともに働かない頭で幾度も答えのない問いを繰り返した。つい数刻前まで、自分は何よりも上には何も無かったはずだ。己が天で、法で、全てであったのに。
「貴様は! 何故余にこのようなことをするのか! 誰だ、貴様は……!」
問うてはみたが、男は本当はわかっていた。この無礼者のことを、彼はよく“知っていた”。それでも、否、だからこそ。自分がどうしてこのような目に遭うのか理解できなかった。
「貴様は……ッ! この国を手に入れて何をするつもりだぁ……!」
毅然として発したはずの男の声は情けなく掠れていた。そのことに男は更に狼狽する。
明かりを落とされ暗闇に沈んだ部屋に動く影は、己と、向かい合う恐ろしい化け物のみ。
暗闇の中、怪しげに煌めく赤の瞳がぼうっと浮かび上がった。生き物のように蠢くその赤に、男は自分の歯の根が合わないのがわかった。
それをじっと見つめる男の瞼が抑えきれない恐怖と緊張に情けなくひくつき始めた時、やっと徐に、紅に染まった唇が開く。形のよい唇から零れたのは、いっそ艶を感じさせるほどの、酷く落ち着いた声だった。
「では逆に問おう。お前はこの国で何をしていた?」
「……何、を……?」
心底意味がわからないという表情を浮かべる男に、赤の瞳はくっきりとした蔑みの色を浮かべた。唇を歪めて言葉を連ねる。
「お前は何のためにそこに座っていた?」
「お前は何のために書簡を書いていた?」
「お前は何を聞いていた?」
「お前は一体、その両の眼で何を見ていた?」
最後に一つ、人のものとは思えぬような引き攣れた叫び声だけを残して──この国の最高権力者であった“国王”は、永遠に沈黙した。
その骸に無感動に背を向け、血塗れた剣を掲げながら、赤目の男は呟いた。
「これで、また一歩」
血溜まりを踏み、彼は顔を上げた。歓喜でも苦悩でもなく、浮かぶのはただひたすらに猛烈な焦燥。
「シレスティアル侯爵家当主、カディス・クレミージ。
美しかったこの国を腐敗させた、能の無い国王を排した私が『皇帝』となり、レガッタ王国はレガッタ『帝国』と改名する」
立会人もいない一方的な宣言の後、新皇帝を名乗った青年は玉座に歩み寄る。
「もう……時間が無いんだ。俺は、彼女に──」
豪華絢爛に飾り立てられたそれに腰を下ろす代わりに、彼はその柔らかなビロードに剣を突き立てた。
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