今宵、皇帝陛下と甘く溺れる
時計を見て良い頃だと判断し開店する。
ここはそれほど大きなパン屋ではないが、昔馴染みの客も多く、店は朝からそこそこ賑わう。
働いているのは店主であるルーレンとアリーナの2人なので、かなり忙しい。アリーナが誰か新しく雇ってはどうかと提案したこともあるが、それほどお金に余裕はないそうだ。
「アリーナ、パンが焼きあがったから持っていってくれるかい」
頷き、受け取る。ほかほかと湯気が立っており美味しそうだ。
いい匂いにつられたのか、置くや否やどんどん数が減っていく。確かに忙しいが、忙しいのはいいことだ。こうして自分たちが作ったものを食べてもらえるのは嬉しい。
「アリーナちゃん、おすすめは?」
声をかけてきたのは殆ど毎日来てくれる常連のおばあさんだ。
「そうですね、私はシンプルですけど、丸パンが好きです。ふわふわしてて美味しいですよ」
「じゃ、そうしようかねえ」
破顔したおばあさんにつられて唇を緩めた時、外が騒々しくなっていることに気がついた。
からんからん、と聞きなれたドアベルの音が鳴り響く。
そして店の中に入ってきたのは、明らかに場違いな、煌びやかに着飾った男だった。つやつやと光る外套をはためかせ、こちらを睥睨する。
髪も瞳も、闇を閉じ込めたような、濃く艶やかな黒色。
しぃん、と静まり返った店内で、ふむと呟いて。
「下町はやはり礼儀がなっていないようだな」
その声に皆弾かれたように跪く。アリーナはタイミングを逸して、ひとり立ち竦んでいた。当然視線を向けられ、ごくりと唾を飲む。
「皇帝、陛下……?」
カディス・クレミージ。レガッタ皇帝と名乗る、あの男。
あれほど不満を抱いていても、いざ目の前にするとがくがくと足が震える。もし出会ったのなら憎まれ口のひとつでも叩いてやろうと思っていたのに、がたがたと歯がぶつかり合うだけ。こちらを強烈に威圧する雰囲気。
自分とは全く違う存在だった。怖い。美しいから、美しすぎるからこそ──怖い。
「店主はいるか」
アリーナが口を開く前に、ルーレンが飛び出してきた。
「て、店主は私ですが」
「この店を買い取る。金は今ここで渡す。勿論、当然の額を払おう」
「は……!?」
アリーナは思わず声を漏らす。ちら、とカディスがこちらを見たのがわかった。
カディスは控えていた兵士から袋を受け取るとルーレンの前に置いた。どしゃっ、と中に入っているのだろう硬貨が擦れる音が聞こえる。ぱんぱんに詰まっていて、片手では持ち上げるのすら難しそうだ。