今宵、皇帝陛下と甘く溺れる
 見送ったルーレンが、肩を落とした。

「ごめんよ、アリーナ。次の働き口は……」

「すぐに探します。大丈夫です」

「それまで、これを使うといい」

 ルーレンが金貨の詰まった袋を押し付けてくる。アリーナは必死で押し返した。

「いえ駄目です、貰えません! これはルーレンさんに渡されたものです。それに……」

 もしかしたら、自分のせいかもしれない。
 言い淀んだアリーナにルーレンが怪訝そうな顔をしたのがわかった。

「と、とにかく大丈夫です! ルーレンさんは、家族と美味しいものでも食べに行ってください!」

 ぐいぐいとルーレンの背中を押す。

「今まで、本当にありがとうございました。ルーレンさん」

「なぁに辛気臭いこと言ってるんだい、アリーナ! またどこかで店開いたら、あんたを探して呼ぶからね!」

 何度もこちら側を振り返りながら遠ざかっていくルーレンに笑いながら手を振り返した。

 見えなくなってから、ぱたんと手を下ろす。流石に、アリーナもため息をついた。
 ああは言ったけれど、行くあてはない。どうしようかと立ち尽くして思案していると、不意に背後に人の気配を感じた。

 自分でそちらを見るより先に、ぐるりと体を半回転させられる。

 すぐ近く、鼻が触れそうな距離に、がっしりとした胸板。
 ふわりと香る花の匂いは、不快に感じない程度の上品で絶妙なバランスで──

「アリーナ」

 腰をくすぐるような艶めいたバリトンに、はっと顔を上げる。
 こちらを見下ろす、黒曜石の瞳。整いすぎて作り物めいた美貌。

「カディス・クレミージ……!?」

 反射的に身を引こうとしたが、ぐっと腰を掴まれる。

「今度は皇帝陛下とは言わないんだな」

「え、あ……いやっ、ちが……驚いて……」

 咄嗟に出たのは名前の方だった。元よりカディスを皇帝だとは思っていないアリーナだが、それ以上にカディスの雰囲気が先程とは全く違うのだ。思わず、本音が出てしまう程度には。

「いや、別に構わない。お前になら名前を呼ばれる方が嬉しいからな」

 反応に困り、アリーナは口を噤む。それを見たカディスがほんの少し唇を綻ばせた。

「名は、アリーナで合っているか。そう呼ばれていたようだったが」
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