今宵、皇帝陛下と甘く溺れる
赤い光を見たら気をつけろ
「ありゃあ……こりゃいけないね」
ふくよかな体型の、垂れ目が特徴的な優しそうな雰囲気をした女店主が呻く。その声に少女は振り返った。
「どうしたんですか、ルーレンさん」
女店主──ルーレンは額に手を当てている。これはよほど何か深刻なことが発覚したのだろうと、少女はエプロンを畳んでいた手を止めた。
「アリーナ。小麦粉を切らせてしまっているみたいなんだよ」
少女──アリーナは、それはいけない、と頷いた。パン屋であるこの店にとってそれは一番大切なものである。
いつもなら誰かが店仕舞いをする前に市場までいって買っておくのだが、今日は誰も行かなかったらしい。忙しかったりすると、偶にあることと言えばあることだった。
アリーナはちらと掛け時計に目をやる。20の刻と半分。まだ春が始まったばかりの今の季節では、すっかり日が落ちて真っ暗であろうことは容易に想像できる。
下町の少ない街灯では満足に道路を照らすことも適わない。アリーナのような20歳にも満たない少女が一人で歩くにはもう少しばかり危険な時間だった。
こういう場合、ルーレンが買いに行くことが多いのだが、生憎今日彼女は普段離れて暮らしている息子と食事に行く予定だった。
「参ったねぇ……」
庶民の私たちが食事に出かけることができるのなんて、年に数える程しかない。アリーナは女店主が一週間も前から嬉しそうに今日の話をしていたのを思い出して、エプロンを手早く畳むと机に置いた。
「私でよければ、行ってきましょうか」
「でもねえ、危ないから……まだアンタは19だしねえ、こんなに細っこいし……」
苦い顔をして渋るルーレンにアリーナは安心させるようににこりと微笑んだ。
「もう19ですよ。それに最近は小麦粉の袋を6つ抱えても余裕があるんです。無法者の一人や二人、どうにかなりますよ」
小麦粉はひと袋が1.5kg。9kgを抱えても大丈夫だと宣う少女にルーレンはまだ悩んでいたようだが、押し問答のせいで遅くなればなるほどいけないと思ったのだろう、ゆっくりと首を縦に振った。
「じゃあ頼むよ。まあ……最近はこんな下町にも衛兵が立っているからね。よほど細い横道に入らない限りは大丈夫だろうさ」
ルーレンが複雑そうな表情で言う。アリーナも何も言えずにただ一度頷いた。
靴の踵で床を叩くアリーナの背に、ルーレンの悪戯っぽい声がかかる。
「吸血鬼に襲われないようにね」
「もう、私を何歳だと思ってるんですか。そんなの迷信でしょう?」
「いやあ、子供も大きくなって最近はめっきり言う機会が減ったと思ってねぇ。『赤い光を見たら気をつけろ』、ってね」
頬を膨らませるアリーナに、その顔を見たルーレンもけらけらと可笑しそうに笑った。春の初め、まだ夜は肌寒い。店主から鍵を預かり外套を適当に引っ掛けると、アリーナは足早にまだ開いているであろう夜店を目指した。