今宵、皇帝陛下と甘く溺れる
「……私は侍女なんでしょう? ご子息様がそういうことをなさるのはおかしいのでは?」

「ふぅむ、ではこうしよう。『子息と侍女は、駆け落ちした』と」

「そんな無茶苦茶な」

「そもそも設定は俺が考えたのだから、どう変えても勝手だろう」

 カディスは帽子の鍔をぐいと引っ張った。

「というわけで、今日はカディスと呼べ」

「は!? 無理ですよ、無理に決まってるでしょう!」

「名前くらいいいだろう。……何も愛称で呼べと言っているわけではない」

 アリーナは目を泳がせた。いつもみたいに『仕事だ』とか『命令だ』とか言ってくれた方が突っぱねやすいのに。

「……う、まあ、できれば。はいっ、この話終わり!」

 なんだか、やりにくい。

「それで、ご子息さまは今日どこに行かれる予定なんですか。私城下町なんて歩いたことないからちっともわかりませんよ」

「時間も良い頃だし、まずは食事だな。こっちだ」

 カディスについて大通りから横道に入る。2人並んで歩けるくらいには広いが、やはり大通りに比べると暗いし、人通りも少ない。

「行きつけ、ですか?」

「まあな」

「陛下ならもっとこう、街一番の大きなお店を貸切にしたりするのかと」

「必要があればするが。今日はあくまで『カディス』だからな」

「変わってますね、へい……」

「『カディス』」

 アリーナは口を閉じた。呼べるはずがない。

 アリーナに名前を呼ばれないことで拗ねている様子のカディスと、それがわかっていても言うことをきけないアリーナは、お互いに黙ったまま歩を進める。

 やがて、突き当たりにぽつんと建つ一軒の小さな店に辿り着いた。
 可愛らしい煉瓦造りで、錆びたランタンと板を丸く抜いた看板が掛かっているきりの外観。

 本当にここか、とアリーナが上目遣いに見やるが、カディスは迷いなく扉を開ける。ちりん、とドアベルが控えめに鳴った。

「いらっしゃい、ディー」

 カウンターに座っていた女性が丸まった背中を叩きながら立ち上がり、鼻に落ちていたらしい眼鏡を押し上げながら嗄れた声で笑った。声色で何となく表情は察せるが、深くフードを被っていて顔はよく見えなかった。

「おや、今日は珍しく女の子と一緒なのねぇ」

「……ディー?」

「偽名だ。貴族だと知れたら色々と気を使うだろ、互いに」

「ああ、なるほど……偽名……」

 ゆっくりと首を傾げるアリーナに囁いたカディスは老婦に向き直る。
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