今宵、皇帝陛下と甘く溺れる
 飛び込んできたカディスが、アリーナを庇うように抱き締めて物陰に転がった。それでも何本かのナイフが掠って血が吹き出す。

「あ……あ、」

 口を覆う。

「ち、血が──」


“お願いします。彼女を見逃してください。代わりに、俺を好きなだけ痛めつけていいので、お願いします”


 視界が激しく明滅する。『あの時』のことが目の前に蘇りそうになって、呼吸が浅くなる。

 ああ、駄目──

 もう一度蓋を閉じようと目を塞いだ両手が、強く引き剥がされた。

「この馬鹿、待っておけと言っただろう!」

 目の前にあるのは、もうそろそろ見慣れた美しい顔。
 幻は、一瞬で嘘のように完全に掻き消えた。

 彼の顔を見て安堵してしまっている自分に動揺して、喚き散らす。

「私は……私は! あんたに何か決められなきゃいけない筋合いはない! なんでそんなに構うの!? 子供扱いしてるならやめてよ!」

「子供じゃないから心配なんだろ!」

 真っ直ぐに叩き付けられる言葉に息が詰まる。

「こ、こんな面倒臭い奴ほっといてよ、可愛げもなくて弄れてて、何にもいいところなんてなくて……そのせいで、あの子を、」

 アリーナはぎゅっと口を閉じた。
 これではまるで、そうじゃないと否定して欲しいみたいだ。

 カディスは何も気づかなかったようなふりをして嘯いた。

「俺はお前だから構ってるんだ。お前じゃなかったら己の身を削ってまで助けるものか」

「──」

 あまりにも真摯な顔をするものだから、堪えきれずに唇が戦慄いて。零れ落ちそうになった言葉を必死にのみこんだ。

 うそつき。
 あなたには『ティア』がいるくせに。

 ただの血を吸うためだけの人間に、そんなことを言って。
 代わりは探せばいるだろうに、そんなものを繋ぎ止めるためだけに、そんなに痛いような表情をして。

 わかっている。全部わかってはいるけれど。
 今だけ。ほんの少しだけ。
 弱くなっても、いいだろうか。
 
「助けて……か、カディス……」

 必死に絞り出して、辛うじてぽそりと地面に落とした声。そっと拾い上げるように、無敵の皇帝陛下は柔らかく微笑んで。


 ──強い。

 ただ、その一言が何よりも彼を表す言葉だった。
 何の心得もないアリーナが見ていてわかるほどに。それでもきっと本気じゃない。剣を鞘に入れたまま、ナイフを弾いて、攻撃を躱して、隙をついてそれを叩きつけるだけ。
 まるでステップを踏んでいるかのように軽やかに、羽根でもついているみたいに飛び上がる。誰も、何も、彼には決して届かない。

 見ていれば、以前彼が言ったことが全て真実だったことがわかった。こんなの、何人増えたって関係ない。人数の問題じゃない。
 違う。彼は、自分たちとは違うもの──

 まるで闇をも斬り裂く一陣の黒風だった。アリーナの心の硬い壁にまでその刃を届けようとするような、そんな鮮烈な姿だった。
< 35 / 97 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop