今宵、皇帝陛下と甘く溺れる
 一人残らず地に伏せさせたカディスがこちらを向いた。
 僅かに伏せられた瞳にぞわりとした。美しく、獰猛で、恐ろしく強い吸血鬼。

 その肩から未だ流れる血にアリーナははっとする。自分のせいで、まだ人を傷つけてしまったのだと。

「……怪我、あなた一人なら絶対にしないで済んだ」

「アリーナ」

「ご、ごめんなさい。私が、ごめんなさ……」

「アリーナ!」

 両手首を掴まれ、壁に押し付けられる。何もかもを溶かすように濃い色をした瞳が、逃がしてくれない。

「俺は強い。吸血鬼は多少のことで死にはしない」

 心の内を見透かしたようにそう言って。

「俺は誰にも負けない。お前の前に立ち塞がる全てを倒してやる。だから、お前は何も気にせず縋ればいい」

 簡単に心を揺らすから、腹が立つ。

「それじゃ駄目なの! 私は何も持ってない。何も返せないのに、そんなの」

「傍にいてくれ。それだけでいい。俺は、お前がいれば何にも屈しない。決して斃れはしない──」

 カディスがそう言って、アリーナの頬を撫でる。そして抵抗しないアリーナの首筋に噛み付いた。

 抵抗なんか、できっこなかった。彼はまるでアリーナの欲しがっているものが、焦がれるものがわかるかのように言葉を紡ぐ。それはまるで甘過ぎる毒のように、アリーナの心に、小さいけれど確かな穴を開けた。

 ゆっくりと埋まる牙に思わず身をよじる。痛いけれど不快ではない痛みで、じわじわと頭の中を侵食してくる。何も、考えられなくなってくる。

 気持ち良いのに……苦しい。

 カディスの怪我が治っていくのが見える。本当に吸血鬼は凄いな、とアリーナは小さく笑った。

 お前がいれば何にも屈しない──か。

 この血があれば、無敵の皇帝陛下でいられるのか。望む、その姿で居てくれるのか。

 完璧な、利害の一致。

 ……そのはずなのに。

 視界が滲む。本当にこれでいいの、と遠くどこかで自分が囁く。
 気持ち良い。誤魔化せないほどに。もう忘れられない。もう、後戻りはできない。

 吸血鬼と餌という関係。そのために始まって、このまま続いていくはずだ。
 それでいいと、いや、それがいいと望んだはずなのに、どうしてこんなに虚しいのだろう。

 出会ったばかりなのに、どうせいつか別れるのに、全部きっとただの気紛れなのに、こんなに気を許してしまって。
 何より──カディスには、他に想っている人がいるのに。

 不意に、強く抱き寄せられる。

「余計なことを考えるな。俺だけを見ていろ」

 強い光を湛えた、爛々と輝く瞳に微笑んだ。
 そうさせてよ。もう、お願いだから。

 せめて今だけ、道が分かたれるまでは、どうか、どうか全部忘れさせて。

 ──私が殺してしまった、あの子のことも。
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