今宵、皇帝陛下と甘く溺れる
 『あの子』と出会ったのは10年前。ルーレンのパン屋の前だった。幼い頃からずっとお世話になっていたけれど、店の前に人が倒れていたのは初めてのことだった。

 詳しくは話してくれなかったけれどどうやら身寄りがないようで、そんな子を放り出すわけにもいかないからとルーレンはその子を匿うことにした。

 アリーナは最初は猛烈に反対した。
 頑なに顔を出さず常にフードを深く被っていて、今まで下町で見たこともない子だったからだ。それに、下町にいる人間にしては格好が小綺麗すぎた。怪しすぎるし、何か事情があるのならルーレンまで巻き込まれることになる。

 けれど、当時のアリーナにとって同年代の子と関わるのはあまりないことで、気がつけば彼はすっかり心の中に居着いてしまっていた。隣にいなければ寂しいと思うようになっていた。

 彼は聡明だった。アリーナにこの国のこと、周りの国のこと、色々なことを教えた。どれもアリーナには目新しく面白くて、何度も話をせがんだ。

 楽しそうに笑う度、悪戯っぽく声を潜める度、顔が見たいと何度も思ったことはあったけれど、何故かそれを言ったら簡単に消えてしまうような気がして、ずっと言えなかった。

 でも、頭の回転が速くて、よく働いて、ルーレンも気に入っていたから。
 だからきっと、ずっと、一緒にいるのだと。そうぼんやり思っていた。


 ──あの日は、鬱々とした雲が立ち込めて、べたつく雨がしつこく降っていた。

 彼とおつかいに行って、明日は豪華にピザでも焼くのかな、なんて話しながら、紙袋に入った野菜を大切に抱えて。
 傘を持ち替えた拍子に、ぽろりとトマトが転がり落ちた。

 慌てて追いかけて掴んだ時、傘が誰かにぶつかった。
 見上げるより先に頬を強かに叩かれて吹き飛んだ。てんてんとトマトが力なく転がる。血の味がした。

 次に見えたのはぎらりと光る、こちらに向けられた剣の切っ先だった。

「小汚い鼠が」

 下町からぽっかりと浮いた人々。どこも解れても穴が空いてもいなくて、見るからに高価そうな衣装。微かにも煤けていない真っ白な頬を歪めて、アリーナの頬を打った男は言う。

「たまに気紛れに降りてみれば、まさかこんな仕打ちを受けるとは。ああ汚い……」

 侍従らしき者がアリーナがぶつかった辺りを頻りに拭っていた。

「なんだ、これは。まさかこれをここでは売っているのか? 食べられたものではないぞ」

 男がアリーナが拾い損ねたトマトに視線をとめた。心底嫌そうにぐしゃりと顔を顰めて。

「ゴミはゴミらしく潰してやらねばな」

 アリーナが伸ばしかけた手の先で、簡単に踏みつけて、踵で磨り潰した。

 信じられないと、目を見開く。

 アリーナの頭の中で何かがぶつんと弾ける音がした。
 ──貴族。実際に見るのは初めてだった。彼に聞いていたより何倍も、糞みたいな──糞よりも最低な奴らだと思った。
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