今宵、皇帝陛下と甘く溺れる
「トマトが……どうやってできるか、知ってますか」

 突然話し始めたアリーナを男は不気味そうに見下ろす。

「はぁ? そんなもの知るか」

 聞いた瞬間、アリーナは傘を投げつけた。次いで殴りかかろうとして、侍従たちに地面に押さえつけられる。背中が痛んで息が詰まる。
 顔を強かに殴られる。それでも構わず叫んだ。

「あんたたちが潰したそれは、誰かが長い時間かけて作ったやつだって、わかってんの!?」

「この……!!」

 振り下ろされる剣に、ぎゅっと目を瞑る。
 けれど、どれだけ待っても何も起こらなくて。

 そうっと目を開けると、庇うように両手を広げて彼が立っていた。肩から溢れ落ちる赤。
 そのまま、びしょ濡れの地面に跪く。

「お願いします。彼女を見逃してください。代わりに、俺を好きなだけ痛めつけていいので、お願いします」

「……ほう」

 男は嗜虐心が唆られたように唇を吊り上げて嗤った。

「まあいいだろう。おい、そこの小娘を動かないように押さえとけ。自分のせいでこいつがどうなるのか、見届けさせてやろう」

 何もできないアリーナの前で、彼が殴られる。蹴られる。何度も、何度も、何度も、何度も。何がどうなっているのか、何もわからなかった。
 ──どうして。貴族の何がそんなに偉いのと言うのか。こんな奴らがのさばっているのが国なのか。
 心が音を立てて軋む。もうやめてと、その叫び方すら忘れてしまって。アリーナは壊れたみたいにただぼろぼろと涙をこぼした。


 どのくらいが経ったのか。
 襤褸雑巾みたいになった彼が投げ捨てられる。傷がないところがなくて、きっと触れば痛むから、駆け寄ったものの触れられなかった。
 フードは取れていたけれど、あれだけ見たかったはずの顔は潰れて、ちっともわからなかった。

「お前がもう少し大きければ、こいつを助けられたかもな」

 粘つく視線がアリーナの体を舐めた。睨みつける気力もなくてぼんやりとそれを見返すと、つまらなそうに舌打ちをして男たちは何事もなかったように去っていった。

 それを見計らったように物陰から大人たちが出てくる。実際見計らっていたのだろう。貴族が立ち去るのを。
 彼の体を持ち上げる。呻きもしない。
 治療してくれるのではない。焼かれるのだ。死体は放置すれば腐って手がつけられなくなるから。

 もう、二度と会えない。

「や、や……やだ、やめて……っ」

 喉が爛れたように痛んで、声が出ない。ぼろぼろと零れる涙で濡れた喉を掻き毟る。

「お願い、おねがいっ、お願いします、何でもするから、連れていかないで……!」

 追い縋ろうとして立ち上がると、腕を掴まれた。

「諦めろ。あいつは無理だ。……お前だって本当はわかってるんだろう」

 ──『自分のせいでこいつがどうなるのか、見届けさせてやろう』

 あの言葉が何度も頭の中で反響して、脳裏に彼の無惨な姿をよみがえらせて、決して解けない鎖のようにアリーナの体を縛り付ける。

 そうだ。そう、だった。
 止める資格は、乞う資格は、自分にはなかった。

 だらりと力が抜ける。
 彼は、自分のせいで死んだ。
 自分は、彼によって生かされた。

 それなら、残されたこれは──心は、意志は、誇りは。もう自分だけのものではない。責任を持って守り続けなければいけない。器である身体がどうなろうとも。

 ごめんなさい。

 もう、きっと最後だから。
 お願い。あと、一度だけ、呼ばせて。
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