今宵、皇帝陛下と甘く溺れる
「あ……」

 思わず声を漏らしたのは、今までに見たことがないくらいに傷ついた顔をしていたから。
 カディスは机の上に置かれた『レガッタ王国の歴史』に目を留めたようだった。

「セルジュ、一体何をしていた」

「何って、勉強ですよ。陛下が彼女に教えられないことを、私が教えて差し上げているだけですが」

 平然と宣うセルジュ。それで全て察したのか、カディスはがちりと歯を合わせた。
 歩み寄ると、本を掴んで乱雑に床に叩き付けた。それを、引き抜いた剣で突き刺す。

 昏い瞳でセルジュを睨みつける。見たことの無い、恐ろしい形相で。

「──次、勝手なことをすれば殺す」

 対して片眼鏡の男は飄々と肩を竦めた。どうしてそんなに余裕でいられるのだろう。戯れなんかではなく本気で怒っているということは、アリーナにだってわかるのに。

 寧ろうっすらと笑みを浮かべているようにみえた。まるで、わざと怒らせたような。悪戯をして愉しんでいるような。

「行くぞ」

 強く腕を引かれて、慌てて立ち上がった。図書館を出て、広い廊下を進んでいく。

「い、いたい、です」

 恐る恐る主張するが、当然のごとく無視される。
 握られた手首が、何より無言が、痛くて。


 連れて来られたのは舞踏場だった。

「次は俺とのダンスの時間だろう。踊れ」

「……そんなの、できるわけ……」

 静まり返った舞踏場。煌々と輝く豪奢なシャンデリアが虚しく2人を照らす。

 自分の腰に添えられているカディスの手が、小刻みに震えている。
 そのことに気がついてはっと顔を上げたアリーナからカディスが顔を背けて、足を踏み出した。音楽はないけれど、くるりくるりとゆっくり回るだけの簡単なステップ。

 知っているはずもないので何となく動きを合わせていたアリーナは、淡々と足を踏むカディスの動きがぎこちないことに気がついた。

「踊れもしないお前にわかるんだから、誰にでもわかるだろう」

 微妙に身を固めたアリーナに、カディスが乾いた声で笑う。

「皇帝が──貴族を統べる存在が、ろくに踊れもしないと知られてみろ。……敵国の王に知られてみろ。一体どう思われるだろうな。セルジュが話したんだろう。全て本当のことだ。俺は半端者で、どうやって誤魔化すか、ずっとそればかり考えて生きてきた」

 カディスが足を止めた。

「俺は、お前としか踊れない」

 じっと、見つめ合う。

「お願いだ……何も探らないでくれ。俺の過去のことを。お前にだけは、知られたくない」

 どうしてと、そう問えたらならどれだけ良かっただろう。あるいは、問うた方が良かったのかもしれない。きっと最初で最後の機会だった。

 でもアリーナは、迷子になった子供のように弱り切ったカディスの顔を見て頷くことしかできなかった。アリーナにだって触れられたくないところはある。仮にカディスに訊かれたとして、『あの子』のことは話せない。彼にとってはそれがここなのだろう。

 自分が本当に彼の婚約者なら。もしかしたら訊ねられたのかもしれない。カディスも、隠しはしなかったのかもしれない。
 ここにいるのが、自分じゃなければ。
 ただの下町の娘には話せないことも、そう……『ティア』になら、きっと。

 今更のように自分たちの距離を感じて、アリーナはひそやかに息を呑んだ。
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