今宵、皇帝陛下と甘く溺れる

 と、いうのは表向きの話で。

 実際のところ、事はそれほど簡単なことではない。現にアリーナは納得がいっていないのだ。
 ただの侯爵が皇帝などと宣い、あまつさえレガッタを冠するなど──彼女には酷く腹立たしいことだった。

 いくら有能だとは言え、彼は貴族だ。生まれながらに何にも困ることなく、何でも手に入り、豊かな暮らしを簡単に手に入れられた者たち、安寧を約束された者たち。それも侯爵となれば、更に。
 貴族は庶民と違い徴兵が無い。それなのに自ら戦火に身を投じるなど、自分からすれば奢りとしか思えない。自分は安全でいることを選べるのに、あえて危険を選択するなど。

 それにアリーナたち庶民──特に下町の者たちには、この国は自分たちのつくり上げたものだという自覚があった。身を粉にして働き、そしてやっと全ての物は生まれるのだということがわかっているから。

 カディス・クレミージはきっとそれがわかっていない。己が口にする物を誰が作っているのか……どうやって作られるのかすら知らないのだろう。湧いて出るとでも思っているかもしれない。そう思うと少し笑えた。

 何が良くなったって、自分たちは諸手を挙げて素直に喜べるはずがないのだ。

 彼を賞賛しているのは、ひと握りの国民だけ。庶民は庶民でも上の者達だけ。でも意見を述べることができるのも彼らだけ。だから、レガッタ・クレミージは国政は上手くいっているとでも思っているに違いない。

 まあ、いい。ただ国の支配者が変わっただけのこと。一生関わることない、見上げてもその存在すらも感じられないようなずっとずっと上の話など、アリーナには関係が無い。

 呑み込まれそうな黒の双眸。高い鼻に、美麗なアーチを描く眉。アリーナは写真の中でこちらに美貌を見せる彼の顔を新聞ごとぐしゃりと小さな両手で握り潰し、くずかごに投げ捨てた。

 嫌な気分になったアリーナは暗い細道に入った。近道であるが、地元の者しか知らない。そんな所を通ろうとしているのは、所々に立つ衛兵から逃れるためであった。

 このいかにも自分はちゃんと国政をしているのだという姿勢が腹が立つ。下町のことなど、放っておいてくれればいい。寧ろ、前の国王くらいはっきりと自分たちのことを無視していてくれた方がわかりやすくて、やりやすくてよかったのに。
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