今宵、皇帝陛下と甘く溺れる
踵の磨り減った靴が石畳の道を蹴るので変な音がする。そのことに何故か安堵して、アリーナは歩を弛めた。
しばらくそのまま歩いて、ふと立ち止まる。歩き出して、また立ち止まる。そんなことを繰り返していたアリーナの顔がさっと青ざめた。
……自分ではない足音がする。こつこつと、微かだが明らかに良い靴の足音。
耐え切れず、ぱっと振り返ってしまう。灯りのない暗い細道、その黒い影の向こうに赤い光がぽつりぽつりと2つ見えた。
目が……合った。
瞳──だった。遠いのに、そうわかった。燃えるように赤い瞳。アリーナは視線が絡んだことがわかって弾かれたように走り出す。
吸血鬼に襲われないようにと、そう言って笑ったルーレンを思い出す。
夜に出歩くと悪い吸血鬼に襲われて、女は連れ去られ餌にされ、男は血を根こそぎ吸われ殺される。だから夜には外に出ては行けない。
『赤い光を見たら気をつけろ、それは彼らに見つけられてしまった証拠だから』──それはこの国で子供を言い含めるための、よくある迷信だった。
この歳にもなって、アリーナだって信じてはいない。だからさっきルーレンに向かって苦い顔をしたのだから。
「は、はぁ、っは、あ……!?」
それにも関わらず絡まり縺れる足、すぐに上がる息。
そう、信じていない。迷信なんて。
それなのに、追いかけてくる足音と近づいてくる息遣いに時折混じる唸り声は本物だった。先程の赤い光かどうかは別として、少なくとも誰かが背後に迫ってきているのは確かだった。
アリーナは人より肝が座っていると自負していたが、突然追い立てられれば流石に恐怖心を感じる。
何故こんな所を通ったのか、先の自分を呪いながらひた走る。しかしいつまでも逃げられるはずもなく、ぐんと左腕が強く引かれる。
それは、小汚い格好をした人相の悪い男だった。
「よォ嬢ちゃん、こぉんな所で何してんだァ?」
ぐいと顎を掴まれて持ち上げられる。へえ、と感嘆の声が上がったのは、おそらくこの翠の目が珍しかったからだろう。不味い、と思った。身売りは珍しいことではない。簡単に金になるから。
拘束から逃れようともがきながら、アリーナは眉を顰めた。この人の目は赤くない。赤いものを身につけていることもない。
では、あれは見間違いだったのだろうか。
いや、とアリーナは一つ瞬く。あの時、目が合った。それは間違いない。
あれはなんだったのだろう──?
ずっと身を捩るアリーナが鬱陶しかったのだろう、男がアリーナの頬を叩いた。ぱしん、と空々しく乾いた音がして、口内に血の味が広がった。反射的に微かに涙が滲む。
「っう……っ」
押し殺した呻き声が情けなくて唇を噛む。
「あぁあぁ、顔に傷つけちまったなぁ。こりゃァ俺が楽しむし、がぁっ」
酒焼けした嗄れ声が不自然に潰れた。直後、下卑た笑みを浮かべて近づいてきていた顔が、横殴りに派手に吹っ飛ぶ。男は壁に打ち付けられて動かなくなった。
その手に掴まれていたアリーナももっていかれて、慌てて踏みとどまる。
「……え?」
何が起こったのかと呆然と呟いたが、その答えは目の前にあった。