今宵、皇帝陛下と甘く溺れる
鞘に入ったままの剣を振り抜いた姿勢で、一人の男が肩で息をしながら立っていた。動くと微かな光に羽織ったマントが艷めく。あまりに生地が良い。身分がこの場にそぐわないものだろうというのはすぐにわかった。
黒の髪は細道の闇よりも色濃く、深かった。すっと通った鼻筋、切れ長の目。それに加えて影を落とすほど長い睫毛、少し上がり気味にアーチを描く眉。これほどに黄金比というものを完璧に守った顔は見つからないだろう。人間離れした美しさ。
つい先程、写真越しに見たばかりの顔。
「カディス……クレミージ」
アリーナの声にぴくりと男が身体を震わせる。こちらを見据えたのは──赤の瞳、だった。
「俺の事を知っているのか」
発された声は思ったより低い艶やかなバリトンで、アリーナは微かに首を竦めた。
別に何かをされたわけでもないのに、何故か先程の男の時よりもずっと強く、本能が逃げろと警鐘を鳴らしている。ただ、本気で追いかけられれば絶対に逃げ出せようがないのはわかっていた。
だから臆面もなく叫んで走り出したいのを堪えて、アリーナは声を発した。
「……あなたにそっくりの黒の瞳をした皇帝様のことなら」
ぴくりと男は眉を上げる。何かを思案するように一瞬視線を浮かせた。
「つい先程、お前が自分で俺の事をカディス・クレミージと呼んだが?」
アリーナはふんと鼻を鳴らした。
「あまりに似てたから思わずよ。まあ、あなたもそれなりにいいご身分みたいだけど。だって……ちゃんと考えれば『皇帝陛下』がこんな所にいるはずない。お城の一番安全なところで寝ているはずだしね」
それを聞いて男がくっと笑った。怪訝な視線を向けるアリーナに緩やかに首をふる。
「いや、危険な目にあったばかりだというのに啖呵を切るとは、肝の座った女だと思って」
違う。肝が座っているんじゃない──諦めているのだ。アリーナは行儀悪く舌打ちを零した。
「無駄口叩いてないで、早く、どうにでもすれば」
つっけんどんな言い草に男が目を瞬かせる。
「あんなに強いあなたに何かされたら、私には抵抗できない。助けた見返りが欲しいでしょう?私を殺さなかったってことはべつに人殺しが好きなわけでもないんだろうし。……するならして、さっさと」
身一つしかない自分たちにはよくあること。寧ろ今までそうならなかったのが運が良かったのだ。ため息と共に吐き出されたアリーナの声に、男は何故か酷く悲しそうな、辛そうな表情を浮かべた。
アリーナはぎゅうと顔を顰める。ああ、その顔は嫌いだ。その感情が『哀れみ』と呼ばれるものだと、この男は気づいていないだろうから、尚更。
「それほど言うのなら。……実を言うと、先程から疼いて仕方ない」
その言葉を耳にし、自分の中にじわりとほの昏い安心感が滲むのがわかって唇を歪めた。
──ほら。やっぱりこの男だって同じだ。
自分に伸びてくる腕をアリーナは振り払わなかった。じっとしていれば早く終わると、そう思っていたから。