今宵、皇帝陛下と甘く溺れる
 いつか、こんなことがあったなと思い出す。初めてカディスと外出した日だ。『エスコートしてやっているんだろうが!』などと彼は顔を赤らめたのだったか。

 ほんの少し前を行く男の耳が赤いのが見えて、アリーナはついこっそり笑ってしまった。この人も、見た目によらずこういうことに慣れていないのかもしれない。

「お名前をうかがっても?」

 こういう場で本名を名乗るものではないだろう。それなら、偽名に使うのは。

「ティア、です」

 男の足が止まって、アリーナは驚いてつんのめった。こちらを振り返り、失礼、と男は首を竦めた。

「少し、考え事を。……丁度曲が始まるようです。一曲、いかがですか」

 断ろうかとも思ったが、アリーナは差し出された手を取った。下手でも、今日限りの相手なら恥ずかしいのは今だけだ。それに一曲くらいなら誤魔化せるかもしれない。

 流れ始めたのはゆったりとしたスローワルツだった。三拍子に合わせてステップを踏む。
 これでもアリーナにとってはギリギリだ。足の動きに必死で、音楽を楽しむ余裕はない。

 ──あれ?

 内心首を傾げる。いつもと、カディスと練習している時とあまり変わらない気がする。
 カディスはああ言っていたけれど、実は貴族たちも皆ダンスはそんなに上手くないのでは。

 けれど、とアリーナは思う。
 決して上手くはないけれど、楽しそうだ。こちらの体を優しくリードしてくれる。

 一体どんな人なんだろう。顔が見えたら、もう少し何かがわかるかもしれない──アリーナはじっと仮面を見つめる。男が見つめ返してきているのが何となくわかった。

 ターンしたところで音楽が切り替わる。知らず近づいていた顔に、は、とアリーナは我に返る。次いで、体にしっかりと回っている男の腕に気がついて思わず顔を赤らめた。これでは、ほとんど抱き合っているようではないか。

「ご、ごめんなさい」

 ぐっと体を押して離れると、男が至極いたたまれなさそうに頭をかいた。

「いや、俺こそ、悪かった」

 動揺しているのか、敬語が抜け落ちている。

「失礼しました……外で夜風に当たりながら話すのはどうですか?」

 アリーナは小さく頷いた。まだ、この人のことを知りたい気分だった。
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