今宵、皇帝陛下と甘く溺れる
 男は思考を辿るように、仮面の縁を長い指でなぞった。

「幸い、私にはある理由で教養は少しありまして。政治、経済、歴史──私にとって面白くも何とも無いものでしたが、彼女は私の話をとても楽しそうに聞いていました。皆が通り過ぎる道端の小さな花にも顔を綻ばせるような、そんな娘だった」

 微かに震える声。

「何とも思っていなかったものを好きになっていく。心を動かされることが増えていく。彼女は私の日常を彩付けていきました。そう──彼女は私の生きる意味だった。彼女がいなければ、私はここにいない」

 少しずつ秘密の蓋を開けるように、男は訥々と話を続ける。

「あれは、酷い雨の日。彼女と店のおつかいにでかけて、その帰りのことでした。些細なトラブルではありましたが、彼女にとっては違った。彼女は相手に食ってかかりました。結果彼女は殺されそうになって──気がついたら、彼女を背に庇っていました。
頭で考えるまでもなく、当然のことだった。そのくらいに、もう彼女を大切に思っていた。私は随分と痛めつけられました。死んだのではと思われるくらいに。いえ……私じゃなければ本当に死んでいたでしょうね」

 微妙な言い回しをして、男は深く頭を垂れた。あたかも断罪を待つ咎人のごとく。

「後悔しているんです。もう少し違う未来もあったのではないかと。あの時、自分を代わりにと差し出すのではなく、違う方法で相手を止められていたら? もっとずっと、相手を捻り潰せるくらいに強かったら? 彼女を独りぼっちにすることはなかったのに。全てを自分のせいだと思って抱えてしまうに違いないのに。私が、彼女を素直に生きられなくさせてしまった──」

「それは違う!!」

 叫んだ拍子に、ぽろりと涙が滑り落ちた。

「いきてたの」

 男は返事を寄越さない。アリーナは堪らず男の仮面に手を伸ばしたが、その手首がやんわりと掴まれた。

「ディー、なんでしょ?」

 男が柔らかく笑った。言葉にはしなかったけれど、それは頷きと同意で。

「ひとりにして、ごめん」

 男──ディーの声とともに、アリーナはその広い胸に縋りついた。ディーの大きな手が背中に回されて、ぽんぽんと優しく叩かれる。
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