今宵、皇帝陛下と甘く溺れる
決して交わらない
「……リーナ、アリーナ!」
「……う、ん?」
強く肩を揺さぶられて、アリーナは薄く目を開けた。すぐ近くから顔を覗き込んでいるルーレンに気がついて目を瞬かせる。後ずさろうとして、自分が冷たい煉瓦の上に腰を下ろしているのに気がついた。正確にはパン屋の玄関先に戸口に寄りかからせるようにして座らされていた。
不自然な体勢でいたために痛む体を少しずつ起こしながら、これは一体どうした事かと慌てて周囲を見回す。空が陽の光に染まり始めている。もう朝のようだ。
滑稽なその様子に、ルーレンが声を上げて笑い始めた。
「まったくアリーナったら、まだ寝ぼけてるのかい? こんな店先で眠りこけるなんて、よっぽど疲れてるのかねぇ。私が帰るのが遅くなったのも悪かったけど、無理はするもんじゃあないよ」
ルーレンの言葉を聞きながら、アリーナは懸命に記憶を遡ろうとして、ふと動きを止めた。あれは、もしかして全部夢だったのだろうか……
無意識に首筋へ手をやって、そして失念していたことを思い出した。
「あっ、小麦粉……!」
ごめんなさい、と謝るつもりで顔を上げたアリーナに、ルーレンは笑って頷いた。
「ああ、ありがとうね、助かったよ。こんなにたくさん大変だっただろうに」
「……え?」
彼女の真っ直ぐ伸ばされた指の方向を見て、アリーナは固まる。買った覚えのない小麦粉の袋がいくつも積まれていた。
「今から仕込みをするから、手伝えそうなら頼めるかい」
状況が全く掴めていないアリーナは、ただこくりと頷いてよろめきながら緩慢な動作で立ち上がった。
……あれは、夢? 現実?
手をどれだけ忙しなく動かしても、そのことばかりを考えてしまう。
あの不可思議な出来事は全て自分の空想か。いや、いくら何でも自分は幻覚を見るほど疲れてはいない。
不自然に店の前で眠りこけていたことも、身に覚えのない沢山の小麦粉も、完全な証拠とは言い難い。しかし本当はたった一つだけ、確かめる方法をわかっていた。簡単なことだ、襟元を緩めて鏡でも見てみればいいだけ──あれが夢でないのなら、確実に残っているはずのものがある。
なぜそれをしないのかと言えば、きっと、自分は怖いのだろう。カディス・クレミージによく似たあの赤い目の男に出会ったことが現実だとしたら、自分はそのことを……悦んでしまうに違いないから。あの気持ちよさは、そう簡単に忘れられない。
アリーナはそっと首筋を撫でる。
「……鬱陶しい、本当に……」
まるで痕跡を態と残したかのように、いつまでもしつこく続くじくじくと甘い疼きを、きっと気の所為だと誤魔化すために。