ケーキ屋の彼
「私、中学生の頃に手を怪我したんです」
柑菜は、美鈴に心を許しているのか、自分の過去について話し始めた。
「涼と喧嘩をした時に、ちょっとしたはずみで転んでしまって手をついたんです。それが思いがけず大きな怪我になって。その後、絵を描いたら全然思い通りに描けなかった。普通の人よりは描けたけど、今まで通りには描けなかった。手が言うことを聞かなくて、私は大好きだった絵から逃げたんです。数ヶ月後、手は元どおりに戻ったけど、逃げた自分はそのまま絵から逃げたままでした……」
柑菜は一旦、乾いた喉を潤すためにコーヒーを飲んだ。
「でも、やっぱり絵が好きで、だけどやっぱり昔みたいに描けなかったらどうしようって思う自分がいて、私は絵の才能があまり重要視されない美術教員を目指すことにしました。教員くらいなら、人の心を動かすものを描かなくても大丈夫だって。……でも、いろんな人と出会って、ただ自分が逃げてるだけだって気付いたんです。評価されずに自分の絵を批判されることがただ怖かった。きっと、怪我をしていなくても私はどこかでそれから逃げていたかもしれません」
「うん、分かる。絵って、自分の一部だもんね」
「はい……でも、もう逃げないことにしました。怪我だって、もう完全に治ってる。自分の弱さを怪我のせいにはもうしません」
美鈴の目を真っ直ぐ見て、柑菜は力強い口調でそう言った。
秋斗が自分の殻を破ることができたその瞬間にいることができたからこそ、柑菜もまた自分と向き合うことができた。
お互いの存在が、お互いを成長させるためには必要不可欠であったのかもしれない。