半透明のラブレター
第四章
繋いだ手
▼錯乱──日向佳澄
勝手に人の心を読まれたら、誰だっていい気はしない。だから俺は、心を読まずに済むように、物理的に人との距離を置くようにしてきたし、軽率に人間に触れたいと思ってはいけない人間だと自分を戒めてきた。なのに、俺はあのとき、中野を抱き締めたいと思ってしまった。
「佳澄、どこまで買い出し行ってたんだ」
店の裏口のドアを開けた瞬間、頭をぐりぐりと撫で回されたが、俺はそんな宮本さんとろくに目も合わさずに、更衣室に入った。ぽたぽたと毛先からしずくが伝い、白い床に落ちていく。あのときの俺は、一体何をしようとしていたんだろうか。真っ暗闇の中、泣きそうな顔で俺の名前を呼ぶ中野の映像が、頭の中を駆け巡っている。あのとき、衝動的に彼女に触れたいと思ってしまったんだ。ありがとうと言われて、初めてこの能力を認めてもらえたような気分になったんだ。偏見も、差別も、何もない。真っ直ぐで透明な感情が、訳が分からないくらい嬉しくて……涙が、出そうになった。
俺はあの日……グラスを買いに行った日に聴いてしまった。中野の心の悲鳴を。店長の後ろ姿を見ながら、店がつぶれてしまえばいいのにと思っている中野の切ない思い。その感情が、言葉が、熱が、全身に流れ込んできた。こんなことを聞かれたと分かったら、中野は俺のことを絶対に避けるだろうと思った。……そう思うと、目の前が真っ暗になった。
――それなのに、中野は。自分の汚い感情をさらけ出して、全部言葉にして伝えてくれたんだ。全て俺のこの罪悪感を消すためだけに。どんなに苦しかっただろう。どんなに悲しかっただろう。どんなに……怖かっただろう。この奇妙で異質な能力を目の前にしても、中野は俺を拒絶しなかった。
……そのとき、俺はもうきっと二度とこんな人には巡り会えないと思ったんだ。たった十七年しか生きていないのに、バカみたいだと言われるかもしれないけれど、でも、本当にそう思ったんだ。
床には、髪先から落ちた水滴が集まって小さな水たまりをつくっていた。俺は、ロッカーを静かに開けて黒いシャツを取り出した。数種類の香水の匂いが染みついているそれをまとった瞬間、なぜか、泣きたくなった。中野に会いたいと、そう思った。でも本当は……理由はもう、分かっていたのかもしれない。
「お、やっときたか、佳澄。ほい、じゃ早く働いてな」
更衣室から出てきた俺を発見した、店員の遠(えん)藤(どう)さんが、てきぱきと指示をしてくれた。彼はこの店で働いて三年目で、バイトとしては一番長く、仕事ができる。少し俺の様子が変なことに気づいていたようだけれど、遠藤さんは少しもそのことには触れてこない。
「あと、髪、まだ乾いてねーぞ。風邪引くなよな。この店、バイト少ねぇんだから」
そう言うと、遠藤さんは店の奥へと消えていった。その薄暗い店の中に、すっと伸びる白い手。……オーダーだ。俺はそのお客さんの元へとゆっくり向かった。近づくと、徐々にはっきりと見えてくるその人の姿に、俺はなぜか緊張してしまった。赤い靴と赤い爪は、周りから異常に浮いていた。
「久しぶり。日向君」
普段、客の顔なんてめったに覚えていないのに、その人は鮮明に記憶に残っていた。……雪さんだった。俺は引き寄せられるように雪さんに近づいていった。
「ふっ、今日も黒い服だ」
そう微笑する雪さんの手元には、もう何本ものタバコが灰皿に押しつぶされている。……この店に来て、大分経っていたのだろう。
「しばらくぶり、ですね……」
「そうね。最近はちょっといろいろあって来る気になれなかったの。でも、今日は気分がいいから」
どこか遠いところを見つめて雪さんは妖艶に笑い、また一本タバコに火をつけた。ぼうっと浮かび上がる青い炎。深い香りは段々と広がっていく。
勝手に人の心を読まれたら、誰だっていい気はしない。だから俺は、心を読まずに済むように、物理的に人との距離を置くようにしてきたし、軽率に人間に触れたいと思ってはいけない人間だと自分を戒めてきた。なのに、俺はあのとき、中野を抱き締めたいと思ってしまった。
「佳澄、どこまで買い出し行ってたんだ」
店の裏口のドアを開けた瞬間、頭をぐりぐりと撫で回されたが、俺はそんな宮本さんとろくに目も合わさずに、更衣室に入った。ぽたぽたと毛先からしずくが伝い、白い床に落ちていく。あのときの俺は、一体何をしようとしていたんだろうか。真っ暗闇の中、泣きそうな顔で俺の名前を呼ぶ中野の映像が、頭の中を駆け巡っている。あのとき、衝動的に彼女に触れたいと思ってしまったんだ。ありがとうと言われて、初めてこの能力を認めてもらえたような気分になったんだ。偏見も、差別も、何もない。真っ直ぐで透明な感情が、訳が分からないくらい嬉しくて……涙が、出そうになった。
俺はあの日……グラスを買いに行った日に聴いてしまった。中野の心の悲鳴を。店長の後ろ姿を見ながら、店がつぶれてしまえばいいのにと思っている中野の切ない思い。その感情が、言葉が、熱が、全身に流れ込んできた。こんなことを聞かれたと分かったら、中野は俺のことを絶対に避けるだろうと思った。……そう思うと、目の前が真っ暗になった。
――それなのに、中野は。自分の汚い感情をさらけ出して、全部言葉にして伝えてくれたんだ。全て俺のこの罪悪感を消すためだけに。どんなに苦しかっただろう。どんなに悲しかっただろう。どんなに……怖かっただろう。この奇妙で異質な能力を目の前にしても、中野は俺を拒絶しなかった。
……そのとき、俺はもうきっと二度とこんな人には巡り会えないと思ったんだ。たった十七年しか生きていないのに、バカみたいだと言われるかもしれないけれど、でも、本当にそう思ったんだ。
床には、髪先から落ちた水滴が集まって小さな水たまりをつくっていた。俺は、ロッカーを静かに開けて黒いシャツを取り出した。数種類の香水の匂いが染みついているそれをまとった瞬間、なぜか、泣きたくなった。中野に会いたいと、そう思った。でも本当は……理由はもう、分かっていたのかもしれない。
「お、やっときたか、佳澄。ほい、じゃ早く働いてな」
更衣室から出てきた俺を発見した、店員の遠(えん)藤(どう)さんが、てきぱきと指示をしてくれた。彼はこの店で働いて三年目で、バイトとしては一番長く、仕事ができる。少し俺の様子が変なことに気づいていたようだけれど、遠藤さんは少しもそのことには触れてこない。
「あと、髪、まだ乾いてねーぞ。風邪引くなよな。この店、バイト少ねぇんだから」
そう言うと、遠藤さんは店の奥へと消えていった。その薄暗い店の中に、すっと伸びる白い手。……オーダーだ。俺はそのお客さんの元へとゆっくり向かった。近づくと、徐々にはっきりと見えてくるその人の姿に、俺はなぜか緊張してしまった。赤い靴と赤い爪は、周りから異常に浮いていた。
「久しぶり。日向君」
普段、客の顔なんてめったに覚えていないのに、その人は鮮明に記憶に残っていた。……雪さんだった。俺は引き寄せられるように雪さんに近づいていった。
「ふっ、今日も黒い服だ」
そう微笑する雪さんの手元には、もう何本ものタバコが灰皿に押しつぶされている。……この店に来て、大分経っていたのだろう。
「しばらくぶり、ですね……」
「そうね。最近はちょっといろいろあって来る気になれなかったの。でも、今日は気分がいいから」
どこか遠いところを見つめて雪さんは妖艶に笑い、また一本タバコに火をつけた。ぼうっと浮かび上がる青い炎。深い香りは段々と広がっていく。