半透明のラブレター
 その瞬間、全身に甘いしびれが走った。手のひらに触れたのは、日向君の冷たい唇。ちゅっという微かなリップ音と同時に、不思議と痛みが引いていった。それは本当にわずかな間のことだったけれど、私はすっかり呼吸の仕方を忘れてしまった。
「あの……。今のは……」
 ……硬直。それしか言いようがない。日向君の鋭い瞳を見たら、何も言えなくなってしまった。でも、なぜかその鋭い眼光の先は、私ではなく朝倉先生に向いていた。
「何お前ら、やっぱり付き合ってんの?」
「ち、違いますよ」
 私は慌てて否定したが、体中の熱が、全部顔に集まっていく。どうしよう。熱い。今、私の頭からは湯気が出ているんじゃないだろうか。ショートする寸前のところで、手をぱっと離された。目の前には困惑したように顔を赤くしている日向君がいた。
「ごめん……」
 口元に手の甲をあてて謝る日向君は、自分でもさっき何をしたのかよく理解していないみたいだ。もちろん私も、ますます訳が分からなくなっていた。二人して硬直したまま、呆然と突っ立っている様子は、周りから見たらすごく珍妙だったろう。しばしの沈黙の中、日向君が不安げに呟いた。
「……やっぱり無理だ」
 でもそれは、あまりにも小さな声だったので、聞き取れなかった。
「……ごめん、帰る」
 日向君は、うつむいたまま歩き出した。朝倉先生が何か言いたげな顔をしていたけれど、結局口をつぐんでいた。私は動揺を隠せないまま彼の後ろ姿を見つめていたが、そのとき、何かが全身を駆け巡って貫いた。日向君が、おじいちゃんと同じように、一瞬“半透明”に見えたのだ。今すぐに消えてしまいそうな……。
「日向君っ」
 気づいたら、私は日向君の名前を呼んでいた。なんか、なんか言わなきゃ。焦るばかりで言葉が見つからない。どうにか精一杯搾り出した言葉は、たったの三文字だった。
「またね……っ」
 “ばいばい”じゃなくて、それに繋がる確かな言葉がほしくて。“またね”って、“また会えるよ”って、言ってほしい。安心させてほしい。おじいちゃんがいなくなったときの、あの、体の半分以上が欠落したような、あんな沈痛な思いをするのはもう嫌だ。
「……うん」
 日向君は、消え入りそうな声で言った。その表情は、今にも崩れてしまいそうだった。“またね”でも、“ばいばい”でもない。曖昧な返事。それだけを残して、日向君は去っていった。
 ……段々と遠くなる影。私は、ただ呆然とするばかりで、日向君がなんであんなに悲しそうだったのか、全く分からないでいた。
「……あんまり仲よくすんなって、言ったのに」
 私の耳には、もう朝倉先生の言葉は入ってこなかった。日向君の“ごめん”という言葉は、私を不安にさせた。日向君が遠くに行ってしまうような気がしたんだ。彼を失うことはとても怖く感じた。胸が痛んだこの瞬間、初めてこれが恋だと知った。
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