MAZE ~迷路~
翌日も、そのまた翌日も、有紀子、敦、智の三人は、美波の面会に赴いたが、美波は一言も話そうとはしなかった。
一部の先走った報道では、美波は重要参考人から、爆発を仕掛けた犯人にされ、果ては殺人の容疑者のように報道されるようになっていた。それでも、実名報道だけはされずに済んでいた。
三人は、少しでも美波の元気が出るようにと、毎日のように警察病院へと面会に行った。
何も話せないとはいえ、重要参考人という立場上、警察の事情聴取などで、面会ができない日もあり、そのような日は、有紀子が敦に連絡し、敦が智に連絡するといったかたちで、智も敦も仕事を調整しては、毎日のように美波のもとに通い続けた。
悪夢のような平日とは違い、週末はやっと巡ってきた安息日のように感じられた。有紀子に続き、智は美波の病院を訪れた。
病室の美波は、日増しに痩せ衰えて行っているように見えた。
「美波、ちゃんと食事しているのか?」
声をかけても、あの事件以来、美波が返事をしたことはなかった。
「美波、本当に俺の事、忘れちゃったのか?」
何を言っても、美波は返事をしなかった。しかし、少し変わったといえば、事件の直後、他人を見るような冷たい目でしか見たことのなかった美波が、少しだけ、親しげな瞳で智を見てくれるようになったことだった。それでも、あの楽しかった日々の美波の笑顔や眼差しとは、比べようもなかった。
「美波、何でもいい。何か言ってくれ。美波、どうして欲しいんだ?」
智が言うと、俯いていた美波は顔を上げた。
「美波は、いつも俺の事信じてくれてたじゃないか。絢子さんを探す時だって、一緒に頑張ったじゃないか。」
智の言葉に、美波は少し瞳を輝かせた。
(・・・・・・・・美波、なんでもいい。何か話してくれ・・・・・・・・)
智は、心の中でそう願い続けた。
「・・・・・・たいの。」
初めて美波が口を開いたのは、その瞬間だった。
「美波、いま、なんて言った?」
慌てて、智は聞き返した。
「逢いたいの。」
美波は、再びつぶやいた。
「逢いたいって、誰に?」
智は身を乗り出して、耳を済ませた。
「哲(さとる)に逢いたいの。」
美波の言葉を理解した瞬間、智のなかで何かがはじけ飛んだ。
(・・・・・・・・哲って、誰だ? もしかして、あの時、あんなに簡単に俺との結婚を白紙撤回しようとしたのは、他に、他に好きな男が居たからだったのか・・・・・・・・)
見えない力に弾き飛ばされるようにして、智は椅子から立ち上がると、怯えたような目で見つめる美波を残して、病室を後にした。
(・・・・・・・・もう駄目だ。これ以上、耐えられない・・・・・・・・)
智には、自分の考えが思い過ごしなのか、それとも事実なのかを考え直すゆとりさえなくなっていた。
真っ青な顔をした智に、心配げに有紀子が声をかけてくれたが、智は『失礼します』とだけ答え、逃げるようにして病院を後にしていた。
病院を出ると、智はすぐに敦の携帯を鳴らした。
敦は、なかなか駐車場にはいれないのか、智の面会が終わっても病院に辿り着いていなかった。電話に出ない敦に、智は留守番電話に繋がるまで、電話を鳴らし続けた。
「・・・・・・敦、智だ。もう駄目だ。俺には耐えられない。もう、美波を信じられない。すまない。」
それだけ言うと、智は電話を切った。
あてもなく歩き続けていた智は、公園近くのコーヒースタンドでコーヒーを買うと、そのまま近くのベンチに座り込んだ。
(・・・・・・・・どこから狂ったんだ? こんなはずじゃなかったのに・・・・・・・・)
智は思いをめぐらしながら、コーヒーを啜るようにして飲み続けた。
(・・・・・・・・敦から見たら、略奪愛かもしれないけど。それなりに、ちゃんとステップを踏んで、それなりの時間をかけてここまで来たはずなのに。お互いに相手を理解する時間も、ちゃんと持ってたはずなのに・・・・・・・・)
智は途方にくれながら、木枯らしに揺れる公孫樹の枝を見上げた。
公園一の大木ともいえる公孫樹の木は、智の悩みなど人類の歴史においては、ほんの小さな点に過ぎないと、智を諭しているかのように、その枝先を風に揺らしていた。
「枝先は揺れても、幹は揺れない。本当に、しっかりした信頼関係があれば、揺れないってことか・・・・・・。」
智は嘲笑するように言うと、じっと大木を見つめ続けた。
「今年の秋は、美波と過ごすはずだったのに・・・・・・。」
智は、誰に言うでもなく呟くと、冷えきったコーヒーの最後の一口を飲んだ。凍るような感触が喉から胃へと伝わっていった。
「美波・・・・・・。」
もう一度その名を呼ぶと、智はゆっくりと立ち上がりベンチ脇のゴミ箱にコーヒーのカップを捨てた。
それを待っていたかのように、敦が智に歩み寄ってきた。
「敦・・・・・・。」
智は言うと、凍りついたように敦の事を見つめた。
「なんで側にいてやらないんだよ。お前は・・・・・・。」
そこまで言うと、敦は一度、言葉を切った。
「お前は、本当に、本当に美波が、美波が何かやったと思っているのか?」
敦は必死に感情を抑えながら、智に問いかけた。
「美波が俺を必要としていない以上、美波の中に、俺のいる場所はもうないんだよ。」
智は言うと、敦に背を向けて歩き出そうとした。
その智の手を敦はすばやく掴んだ。
「待てよ。これだけは言っておく。お前が美波の側を離れるなら、俺が美波を支えていく。」
腕がちぎれそうなほどきつく握りしめる敦に、智は静かに答えた。
「今の美波は、誰も必要としていない。俺も、それから、お前の事も。」
「勝手にしろ。俺は、たとえ美波が殺人犯でも、凶悪犯でも、そばにいてやりたいんだ。この想いは変わらない。」
敦の気持ちは、智にも痛いほどわかった。
「美波は・・・・・・。」
そこまで言ったとたん、ウェディングドレス姿の美波が智の脳裏を横切った。智の人生で、これほどまでに失いたくないと思った人は、今まで一人もいなかった。
「俺の気持ちは変わらない。でも、駄目なんだよ。お前にもそのうちわかるさ。」
智は言うと、一気に敦の手を振り払った。
「今日、初めて美波が口をきいたよ。さとるに逢いたいって。」
智が言うと、敦の顔は見た目に分かるほどに引きつった。
「まさか、美波がそう言ったのか? 嘘だろ?」
敦の動揺が、智には滑稽に見えた。
(・・・・・・・・なんだ、さとるって男を知らなかったのは、俺だけなんだ・・・・・・・・)
智は思うと、不思議に諦めがつくのを感じた。
「だから言っただろ。美波は、俺たちを必要としていないって。」
智は言うと、溜息をついた。
「じゃあな。」
石のように動けずにいる敦にそれだけ言うと、智は背を向けて歩き始めた。
「・・・・・・あいつは、哲は死んだんだよ。」
敦は智の背中に向かって言った。
智は一瞬だけ立ち止まったが、そのまま敦に背を向けて歩き去っていった。
(・・・・・・・・おかしい。美波が、美波が哲に、夛々木君に会いたがるはずがない・・・・・・・・)
敦は頭がおかしくなりそうな気がして、両手で頭を抱え込んだ。
(・・・・・・・・おかしい。絶対、何かがおかしい・・・・・・・・)
敦はそう考えながら、智とは別の方向に向かって歩き出した。
一部の先走った報道では、美波は重要参考人から、爆発を仕掛けた犯人にされ、果ては殺人の容疑者のように報道されるようになっていた。それでも、実名報道だけはされずに済んでいた。
三人は、少しでも美波の元気が出るようにと、毎日のように警察病院へと面会に行った。
何も話せないとはいえ、重要参考人という立場上、警察の事情聴取などで、面会ができない日もあり、そのような日は、有紀子が敦に連絡し、敦が智に連絡するといったかたちで、智も敦も仕事を調整しては、毎日のように美波のもとに通い続けた。
悪夢のような平日とは違い、週末はやっと巡ってきた安息日のように感じられた。有紀子に続き、智は美波の病院を訪れた。
病室の美波は、日増しに痩せ衰えて行っているように見えた。
「美波、ちゃんと食事しているのか?」
声をかけても、あの事件以来、美波が返事をしたことはなかった。
「美波、本当に俺の事、忘れちゃったのか?」
何を言っても、美波は返事をしなかった。しかし、少し変わったといえば、事件の直後、他人を見るような冷たい目でしか見たことのなかった美波が、少しだけ、親しげな瞳で智を見てくれるようになったことだった。それでも、あの楽しかった日々の美波の笑顔や眼差しとは、比べようもなかった。
「美波、何でもいい。何か言ってくれ。美波、どうして欲しいんだ?」
智が言うと、俯いていた美波は顔を上げた。
「美波は、いつも俺の事信じてくれてたじゃないか。絢子さんを探す時だって、一緒に頑張ったじゃないか。」
智の言葉に、美波は少し瞳を輝かせた。
(・・・・・・・・美波、なんでもいい。何か話してくれ・・・・・・・・)
智は、心の中でそう願い続けた。
「・・・・・・たいの。」
初めて美波が口を開いたのは、その瞬間だった。
「美波、いま、なんて言った?」
慌てて、智は聞き返した。
「逢いたいの。」
美波は、再びつぶやいた。
「逢いたいって、誰に?」
智は身を乗り出して、耳を済ませた。
「哲(さとる)に逢いたいの。」
美波の言葉を理解した瞬間、智のなかで何かがはじけ飛んだ。
(・・・・・・・・哲って、誰だ? もしかして、あの時、あんなに簡単に俺との結婚を白紙撤回しようとしたのは、他に、他に好きな男が居たからだったのか・・・・・・・・)
見えない力に弾き飛ばされるようにして、智は椅子から立ち上がると、怯えたような目で見つめる美波を残して、病室を後にした。
(・・・・・・・・もう駄目だ。これ以上、耐えられない・・・・・・・・)
智には、自分の考えが思い過ごしなのか、それとも事実なのかを考え直すゆとりさえなくなっていた。
真っ青な顔をした智に、心配げに有紀子が声をかけてくれたが、智は『失礼します』とだけ答え、逃げるようにして病院を後にしていた。
病院を出ると、智はすぐに敦の携帯を鳴らした。
敦は、なかなか駐車場にはいれないのか、智の面会が終わっても病院に辿り着いていなかった。電話に出ない敦に、智は留守番電話に繋がるまで、電話を鳴らし続けた。
「・・・・・・敦、智だ。もう駄目だ。俺には耐えられない。もう、美波を信じられない。すまない。」
それだけ言うと、智は電話を切った。
あてもなく歩き続けていた智は、公園近くのコーヒースタンドでコーヒーを買うと、そのまま近くのベンチに座り込んだ。
(・・・・・・・・どこから狂ったんだ? こんなはずじゃなかったのに・・・・・・・・)
智は思いをめぐらしながら、コーヒーを啜るようにして飲み続けた。
(・・・・・・・・敦から見たら、略奪愛かもしれないけど。それなりに、ちゃんとステップを踏んで、それなりの時間をかけてここまで来たはずなのに。お互いに相手を理解する時間も、ちゃんと持ってたはずなのに・・・・・・・・)
智は途方にくれながら、木枯らしに揺れる公孫樹の枝を見上げた。
公園一の大木ともいえる公孫樹の木は、智の悩みなど人類の歴史においては、ほんの小さな点に過ぎないと、智を諭しているかのように、その枝先を風に揺らしていた。
「枝先は揺れても、幹は揺れない。本当に、しっかりした信頼関係があれば、揺れないってことか・・・・・・。」
智は嘲笑するように言うと、じっと大木を見つめ続けた。
「今年の秋は、美波と過ごすはずだったのに・・・・・・。」
智は、誰に言うでもなく呟くと、冷えきったコーヒーの最後の一口を飲んだ。凍るような感触が喉から胃へと伝わっていった。
「美波・・・・・・。」
もう一度その名を呼ぶと、智はゆっくりと立ち上がりベンチ脇のゴミ箱にコーヒーのカップを捨てた。
それを待っていたかのように、敦が智に歩み寄ってきた。
「敦・・・・・・。」
智は言うと、凍りついたように敦の事を見つめた。
「なんで側にいてやらないんだよ。お前は・・・・・・。」
そこまで言うと、敦は一度、言葉を切った。
「お前は、本当に、本当に美波が、美波が何かやったと思っているのか?」
敦は必死に感情を抑えながら、智に問いかけた。
「美波が俺を必要としていない以上、美波の中に、俺のいる場所はもうないんだよ。」
智は言うと、敦に背を向けて歩き出そうとした。
その智の手を敦はすばやく掴んだ。
「待てよ。これだけは言っておく。お前が美波の側を離れるなら、俺が美波を支えていく。」
腕がちぎれそうなほどきつく握りしめる敦に、智は静かに答えた。
「今の美波は、誰も必要としていない。俺も、それから、お前の事も。」
「勝手にしろ。俺は、たとえ美波が殺人犯でも、凶悪犯でも、そばにいてやりたいんだ。この想いは変わらない。」
敦の気持ちは、智にも痛いほどわかった。
「美波は・・・・・・。」
そこまで言ったとたん、ウェディングドレス姿の美波が智の脳裏を横切った。智の人生で、これほどまでに失いたくないと思った人は、今まで一人もいなかった。
「俺の気持ちは変わらない。でも、駄目なんだよ。お前にもそのうちわかるさ。」
智は言うと、一気に敦の手を振り払った。
「今日、初めて美波が口をきいたよ。さとるに逢いたいって。」
智が言うと、敦の顔は見た目に分かるほどに引きつった。
「まさか、美波がそう言ったのか? 嘘だろ?」
敦の動揺が、智には滑稽に見えた。
(・・・・・・・・なんだ、さとるって男を知らなかったのは、俺だけなんだ・・・・・・・・)
智は思うと、不思議に諦めがつくのを感じた。
「だから言っただろ。美波は、俺たちを必要としていないって。」
智は言うと、溜息をついた。
「じゃあな。」
石のように動けずにいる敦にそれだけ言うと、智は背を向けて歩き始めた。
「・・・・・・あいつは、哲は死んだんだよ。」
敦は智の背中に向かって言った。
智は一瞬だけ立ち止まったが、そのまま敦に背を向けて歩き去っていった。
(・・・・・・・・おかしい。美波が、美波が哲に、夛々木君に会いたがるはずがない・・・・・・・・)
敦は頭がおかしくなりそうな気がして、両手で頭を抱え込んだ。
(・・・・・・・・おかしい。絶対、何かがおかしい・・・・・・・・)
敦はそう考えながら、智とは別の方向に向かって歩き出した。