MAZE ~迷路~
 高速を乗り継ぎ、智は東名の御殿場インターから乙女峠を抜けて箱根へと戻るルートを選んだ。最初のうちは、カーステから流れる音楽にあわせて歌を口ずさんだりしていた美波だったが、渋滞で車がのろのろ運転を始める頃には、いつしか眠りについていた。
 急ぐ旅ではないので、智も美波の眠りを妨げないように、ゆっくりと静かに運転を続けた。
 二人が仙石原に着いたのは、日も暮れかかった夕方の事だった。
「美波、着いたよ。」
 智は言いながら、美波の事を優しく揺り起こした。
「あ、ごめん。私、寝ちゃったのね。」
 美波は言うと、小さくあくびをした。
「僕が荷物を持つから、一人で降りられる?」
 智の言葉に、美波は無言で頷いた。
「じゃあ、荷物を降ろすよ。」
 智は言うと、運転席から降りて、後部のハッチバックを開けた。智が二人分の荷物を降ろし終わった頃、やっと美波が助手席から姿を現した。
「う~ん。」
 美波は声を出しながら、大きく伸びをして体を伸ばした。
「すぐに温泉に入るといいよ。」
 智は言うと、美波に車の鍵を手渡し、荷物を持ち上げた。美波はドアーの鍵を閉めると、智の後に続いた。


 部屋に入ると、美波はすぐに荷物をとき始めた。二泊三日の旅行にも、ちゃんと枕を持ってくる几帳面さに、智はいつも苦笑いを浮かべずにはいられなかった。
「ちゃんと、枕も持ってきたんだね。」
 智は言うと、大きなバックから枕を一番に取り出し、形を整えている美波に声をかけた。
「もちろん。」
 美波は言うと、さらに四次元ポケットのように荷物が詰まったバックの中から、どんどん荷物を取り出し始めた。
「じゃあ、僕は隣の部屋にいるから。夕飯はどうする?」
 智の言葉に、美波は一階のキッチンを思い浮かべた。
「食べに行くか、出前を取るか。」
 美波の考えている事がわかったのか、すぐに智は言葉を続けた。
「なんだか今日は疲れてて、何かデリバリー頼んでもいいかしら?」
 美波が言うと、『了解』と智は言いながら、隣の部屋で荷物をとき始めた。
 智の父が所有する会員制のコンドミニアムは、二階のベッドルームと一階のキッチン、リビングと生活空間がきっちり分かれており、大勢でもくつろげるようになっていた。
 智は手早く荷物を取り出して片付けると、ゆっくりと荷物を片付けている美波を二階に残して、夕飯の手配に階下へと降りて行った。
 美波は智の足音を聞きながら、勝手を知っている部屋でゆっくりとくつろぎながら、荷物を片付けた。


 その日の夕飯は、寿司の出前を取って済ませた。
「ごめんね。明日は、お料理するから。」
 美波は言うと、ちょっと上目遣いに智の事を見つめた。
「いや、明日も出前で構わないよ。外に食べに行っても良いし。今回の旅行は、美波の疲れを癒すための旅行で、更に労働させるためのものじゃないからさ。」
 智は言うと、少し顔色の良くなった美波に、優しく微笑みかけた。
「じゃあ、片付けるね。」
 美波が立ち上がると、智も続いて立ち上がった。
「美波、今日は洗い物もしなくて良いよ。僕がやるから。ソファーに座って、音楽でも聴くといい。」
 智は言うと、美波の手を引っぱって居間のソファーに座らせた。
「でも、智も運転で疲れてるでしょ。」
 美波は言うと、心配げに智の事を見つめた。
「明日は、ゆっくり美波と過ごすから大丈夫。」
 智はステレオのスイッチを入れ、テーブルを片付けた。
 ステレオから流れる音楽が子守唄になったのか、智が片付けを終わる頃には、美波はソファーでうとうとし始めた。

(・・・・・・・・美波、本当に疲れてるんだ・・・・・・・・)

 智はそう思いながら、ゆっくりと美波のところに歩いて行った。
「美波、温泉どうする?」
 智は言いながら、美波の額に手を当てた。

(・・・・・・・・熱はないな・・・・・・・・)

「大丈夫。なんだかゆっくりしたら眠くなっちゃって。」
 美波は言うと、ゆっくりと起き上がった。
「温泉の場所わかるよね?」
 智が言うと、美波は頷いて見せた。
「じゃあ、行こうか。」
 智は言いながら、立ち上がる美波に手を貸した。それから二人は着替えを持ち、大浴場に出かけていった。


 大浴場はコンドミニアムのフロントがある建物の中にあり、日替わりで男性用と女性用の浴場が入れ替わるシステムになっていた。そのメインの建物から、突き出すようにして、コンドミニアムが並んでおり、それぞれは長い回廊で結ばれていた。
 美波と智はゆっくりと回廊を抜け、大浴場まで歩いて行った。
「美波はからすの行水だから、先に帰って良いよ。」
 智は言うと、美波に背を向けて男湯の暖簾の中に消えていった。
「わかった。」
 美波は言うと、自分も女湯の暖簾をくぐり中に入っていった。


 美波は、ゆっくり露天風呂を楽しんだつもりだったが、それでも長風呂の智よりは早く、智は部屋に戻っていなかった。ドアーの鍵をあけて中に入ると、美波は濡れたタオルを洗濯機に放り込んだ。それからパジャマに着替えると、智に見つからないように隠しておいた、お揃いのパジャマを取り出して智のベッドの上に置いた。
「智、気に入るかしら?」
 美波は呟きながら、一階へと降りていった。冷蔵庫では、冷たく冷えたエビアンが美波を待っていた。
「お風呂上りは、ぜったいこれこれ。」
 美波は言いながら、大きなグラスいっぱいのエビアンを一気に飲み干した。
「ふう~。冷たかった。」
 美波は声に出して言うと、もう一杯グラスについでからボトルを冷蔵庫に戻した。
 ステレオは出かけるときに止めてあったので、美波は電源を入れると家から持ってきたMDを再生した。MP3が主流となった今でも、このコンドミニアムでは、なぜかMDが備え付けられていたので、今ではほとんど聞かないMDをまとめて美波は持ってくることにしていた。
 曲が再生されるまでの数秒は、宝探しや福引のような、ちょっとしたドキドキ感を美波に与えてくれた。

「・・・・・・・・・・・・・・。」
 突然流れ始めた懐かしい曲に、美波は心臓が止まるような感じを覚えた。

(・・・・・・・・この曲は・・・・・・・・)

 自然と美波の瞳から涙が溢れ始めた。

(・・・・・・・・ティンク・・・・・・・・)

 美波は心の中でその名を呼ぶと、その場にしゃがみこんで泣き崩れた。

『美波、美波。泣かないで美波。私は美波をずっと待ってるんだよ。』

 絢子の声が聞こえた気がして、美波は驚いて顔を上げた。
「ティンク!」
 美波は声に出して呼ぶと、あたりを見回した。
 あの日以来、絢子(あやこ)の声が聞こえたような気がする事は何度もあったが、こんなにもはっきりと、意味を持つ言葉が聞こえたのは初めてだった。

『美波。逢いたい・・・・・・。』

 美波は、絢子の声が鼓膜に響くのを感じた。
「ティンク、どこにいるの?」
 美波は呼びかけながら、あたりを見回した。しかし、もう絢子の声は聞こえなかった。

(・・・・・・・・ティンクが生きてる? 私を待ってる?・・・・・・・・)

 美波は悲しみと喜びの入り混じった感覚の中で、恐怖を感じる事はなかった。『必ず、一緒になれる』という絢子の手紙の一説が、美波の頭の中に浮かび上がっただけだった。

(・・・・・・・・ティンク。私、私、ずっと待ってる・・・・・・・・)

 美波は心の中で言うと、涙を拭いて智の帰りを待った。


 ソファーに俯いて座っている美波を見つけた智は、言葉では表わせない何か不吉なものを感じた。
「美波、どうかしたの?」
 智は、優しく美波の肩を抱きながら問いかけた。
「なんでもないの。」
 美波は言うと、一瞬だけ智の顔を見上げ、再び俯いた。
「なんでもなくないよ。凄く不安そうな顔してる。」
 智の言葉に、美波は顔を引きつらせながら笑って見せた。
「わかったよ。何かあったら、ちゃんと言うんだぞ。」
 智は言うと、タオルで濡れた髪を拭き始めた。本当は、しっかりと美波を抱きしめたかった智だったが、今にも水が滴り落ちそうな濡れた髪が気になって手を止めた。
「はやく髪を乾かした方が良いよ。」
 美波は言うと、お茶を煎れに立ち上がった。
「智もお茶飲むでしょ。」
 美波の言葉に、智は頷いて見せた。


 美波はお茶を煎れると、ソファーのところに戻ってきた。
「智、今日、一緒に寝てもいい?」
 美波が言うと、智は少し顔を引きつらせた。
「・・・・・・み、美波、ここは二人っきりだし、俺、自信ない。」
 智は言うと、頭をかいた。
「せっかくの美波の気持ちを無駄にしたくないから、約束、守りたい。けど、自信ない。」
 智の言葉に、美波はしずかに頷いた。
「わかった。」
 美波は言うと、智に寄りかかるようにしてソファーに座った。
「何かテレビ良いのやってないかな?」
 智は言うと、目で美波の了解を取ってから、ステレオを止めてテレビをつけた。テレビでは、特にこれと言って面白いものを放送していなかったが、美波が智に寄り添っているので、智はそのままテレビを見つづけた。
「美波、疲れてない?」
 智は、こまめに美波の様子を確認しながら、テレビのチャンネルを変えたりした。
「なんだか、眠くなってきちゃった。」
 美波の言葉に促され、智はテレビのスイッチを消した。
「じゃあ、ゆっくりお休み。」
 智は言いながら、美波の手をとると、二階の寝室まで進んでいった。
「何かあったら、すぐに声をかけて。」
 智は言うと、美波が部屋の中に消えていくのを見守った。


 美波は部屋に入ると、すぐにベッドに入り電気を消した。いつもは寝つきの悪い美波だったが、疲れているせいか、温泉の効果か、すぐに眠りについてしまった。

☆☆☆
< 4 / 45 >

この作品をシェア

pagetop