英雄は愛のしらべをご所望である
驚きと焦りが入り交じった瞳と目が合う。咄嗟に伸ばされた手にセシリアは届かないとわかりつつも手を伸ばした。


「うおっ! えっ、や、ちょっ! 待て待て待て」


塀の奥に消えていった大きな体が打ち付けられる音は聞こえてこない。けれど、その代わり、男の悲鳴に似た声がセシリアの耳に届いてきた。
その必死な声にセシリアは思わず塀へと駆け寄る。


「あ、あの! 大丈夫ですか!?」


暫しの沈黙が過ぎていき、セシリアの額に汗が滲む。
全く知らない赤の他人ではあるのだが、一応、男は客なのだ。放置するわけにもいくまい。セシリアは意を決して声をかけた。


「あの、そちらの方はーー」
「そこにいるのはセシリアか?」


明らかに先ほどの男のものではない声が返ってくる。それどころか、セシリアはこの声を知っていた。
予期せぬ登場にセシリアはひゅっと喉を鳴らす。そして、明らかに不機嫌なその声に先ほどとは違った意味で焦りを覚えた。


「えーっと、あのー……」


なんとか誤魔化したいセシリアは口ごもる。しかし、相手はそれを許してはくれなかった。


「お前は警戒心ってものを持っていないのか」
「……返す言葉もございません」


セシリアは塀に向かって深々と頭を下げるしかなった。
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