不器用な僕たちの恋愛事情
斉木家到着、二十時五分。
先に謙人を降ろし、竜助、晴日と十玖の順で帰宅した。
「お疲れ様でした。筒井マネ、帰り気を付けて」
「お疲れ様っしたぁ」
「お疲れ。明日学校でしょ。ちゃんと休んでね」
疲れが滲んだ笑顔で手を振ると、筒井は早々に走り去った。
二人はワゴンが見えなくなるまで見送って、家の中に入った。
「ただいま~っ」
「お邪魔しま~す」
二人の声が玄関に響くとほぼ同時に、階段を駆け降りてくる足音がふたつ。
「おっかえり~っ!」
十玖目がけて、いつも通り勢いよく走ってくる萌が、まさに飛び付こうとしたその瞬間、二人の間に晴日が割って入り、萌を掻っ攫うように抱き上げた。
「!? なに――――ッ!? 晴さんどうしたの!?」
晴日の腕の中でバタバタ暴れる萌を、呆気に取られて眺める十玖と美空。
晴日はアゴ先で美空を指し、「はよ行け」と促され、十玖はさっさと美空の前に立った。
「おかえり」
「ただいま」
触れ合うこともなく、ただ笑みだけを交わす。
前ならその腕に美空を抱きしめたのに、容易く触れることを許さない寂しさをひしひしと感じる。
それを知ってか知らずか、晴日が萌を引き受けてくれた事に感謝した。
「萌。受験終わったら、俺と付き合わねえ?」
あまりに唐突で、三人は晴日をガン見する。
「…はい?」
「俺と付き合ってよ」
「えっとぉ…つまりどーゆーコト?」
「なんかお前のこと好きみたいだ」
萌は晴日を見据えたままフリーズする。
物言いたげに十玖を見上げる美空に、事の経緯を話す。
「返事は?」
「あ……いっ一番は不動のとーくちゃんなんだけどっ」
「チッ」
「舌打ち!? 舌打ちするならなかったって事で」
「なんじゃそりゃ」
「だって年季が違うも」
「あーっ。わかったよ。別枠で俺が一番になってやるよ。それでどうよ?」
挑むような目付きで萌を見入る。
「俺のコト嫌いか?」
「……好き…です」
真っ赤な萌の、消え入りそうな声だった。
一気に晴日の笑顔が咲く。
「よしッ!!」
「よしって何?」
「くれぐれも抱きつく相手を間違えるなよ」
「それ自信ない」
「ああっ!?」
「気をつけます」
俯いた萌に満足そうな笑みを浮かべ、十玖と美空を見るとニヤリと笑った。
「速攻ですね」
「鉄は熱いうちって言うだろ」
「はあ。うちの萌、お手柔らかにお願いしますね」
「どういう意味だ?」
「まあ色々と」
道中に聞いた年上の女性のことが有るので、とは言えず言葉を濁した十玖の心情を察したようだ。
「了~解」
少々バツが悪そうな晴日。
なんかあったの? と十玖の袖を引っ張る美空に、首を振ってにこりと笑う。
美空は納得いかないようだが、晴日の事なので想像出来るといえば出来る。
兄に訝しげな眼差しを向けると、晴日は僅かにたじろいだ。
「そう言えばさぁ。SNSお兄ちゃんの仕業でしょ?」
「見た?」
「見た」
「萌も見たぁ。とーくちゃんのパンツ姿、久しぶりで見ちゃった」
萌の発言にその場が一気に凍る。
美空と晴日の昇り立つような怒りの波動に、十玖は後退って行く。
「玄関先で立ち話もなんですから、場所移しません?」
そう言って、一目散に晴日の部屋に駆けて行く十玖を、間髪入れず追いかけた。
抱っこされてる萌はキャーキャーと一人ご機嫌だ。
十玖は壁際にすぐに追い詰められ、引きつった笑みを浮かべてる。
「萌が言ってるのは、小学校の低学年の頃の話ですから」
「そ~だよ。一緒にお風呂入ってたんだよね」
空気を読まない無邪気な萌に、うっすらと怒りを覚える。
晴日の顔が更に険しくなったが、すぐ鼻先で挑戦的に笑う。
「そーいや俺も美空と風呂入ってたもんな。あるある。そーゆーコト」
今度は十玖がムッとした。
それを他所に、萌のKYぶりが発揮される。
「萌がとーくちゃんのオチンチン思いっきり引張たら泣いっちゃって、それから一緒に入ってくれなくなったんだよね?」
美空の冷ややかな眼差しに、十玖は固唾を飲んだ。
何でこんな事になってるんだ、と心中で嘆く。
「萌。もう黙っていいから」
「あー俺も美空にやられたわ。あれって何でかねぇ?」
十玖は無言で美空を見下ろすと、誤魔化すように微笑んで、「これ何の戦い?」と小首を傾げ、十玖の腕に腕を絡める。
腕に当たる柔らかな感触に、妙な対抗意識が萎えていき、ダメだと思いつつも自然と緩む口元を覆い隠した。
この状況は嬉しいけど、禁欲生活を余儀なくされている身としては、下半身的にかなりヤバイ。
かと言って不自然に美空を引き離したりしたら、彼女を傷つけてしまいそうで、それも怖い。
美空を傷つけないように、体をずらして少し距離を取る。
十玖は三人を見回して、美空に視線を戻した。
「身内をトレードしたが故に発生した、互の相手の過去を知り得る者に対する嫉妬?」
「不毛だな」
「そうですね」
面白くないのは事実だが、子供の頃の事に嫉妬しても仕方ない。
どうしたって過去の情報量は、身内には適わないのだから。
「しかし。子供の頃とは言え、泣くほど引っ張られるって、悲惨だな」
「まだそこに食いつきますか?」
「同じ痛みを知ってる仲間じゃん。俺は絶叫で済んだけど、あれは女には計り知れぬ苦痛だよな」
「ですね」
チラリと美空を盗み見て、引きつった笑みが張り付く。
美空の表情が乏しくなって、肝が冷えてきた。なのにまたそこに萌がいらぬ茶々を入れた。
「もう引っ張らないよ?」
「あの萌さん。もうじゃないから。マジ止めてね。あの世を垣間見るから」
「だから引っ張んないってば。もお。萌帰る。晴さん下ろして」
「ヤダ」
「帰って勉強する」
「じゃあこのまま家まで送る」
そう言って萌を抱き抱えたまま、二人を残して出て行ってしまった。
なんだか気まずい空気に身じろぎすると、美空がびくりとした。
十玖の胸にふと悲しみに似た感情が過る。
「ごめん」
すっと美空を引き離し、自分の荷物を漁り始めた。
寂しげな十玖の背中。
美空はその後ろにしゃがみ込んで、十玖の背中に頬を寄せる。
「十玖。ごめんね」
「……はい。お土産。時間なくて大したもの買えなかったけど」
肩ごしに小箱を差し出す。
「こーゆーの美空好きかなと」
星果庵の金平糖。
小瓶の中にカラフルな星が詰まっていた。
「可愛い。遊びに行ったわけじゃないのに、ありがと」
「気に入ってくれた?」
「うん。食べるのもったいないね」
「腐るもんじゃないけど、食べてよ?」
「よし。もったいないと言ったそばから開けちゃお」
美空はコルク栓を開けて、手のひらにふた粒の星を取り出し、そのうちの一粒を抓むと十玖の口元に持っていく。
「あーんして」
「美空が食べて」
「いいから。十玖。はい。あーん」
美空の仕草が隠微な妄想を掻き立てる。
金平糖を抓んだ指が唇に触れ、舌の上に金平糖が転がる。
頭の中がカーっと熱くなって、離れていこうとする美空の手を握り、指先に軽く口づけた。そして我に返る。
咄嗟に“ヤバイ”という単語が浮かんできて、誤魔化すための言葉が、
「この姿勢って、猿のグルーミングみたいだよね」
と言って、美空に頬を抓られた。
「言うに事欠いて、グルーミング?」
「痛いよ、美空」
抓る手を取って前に引っ張ると、あっさり美空が腕の中に収まった。
目を見開いて、十玖を凝視する美空。
そのまま吸い込まれるように顔を近付けて行く。
腕の中で美空が硬直するのがわかって、十玖は冷静に戻った。
「どんな美空でも、可愛いよって言ってるの。思わずキスしたくなるくらい」
泣きそうな顔をしている十玖の頬に、そっと触れた。
「キスしてもいいよ」
魅惑的な囁き。
それに抗うことの苦痛は、筆舌にし難い。
「ダメだよ。キスしたら、その先を望んじゃうから」
「…っ」
「今日は、帰るよ」
座らせた美空の前髪を掻き上げ、小さく震える彼女に微笑む。
荷物を肩に掛け、部屋を出て行こうとする十玖の服の裾を抓んだ。
「嫌いにならないで」
涙声の美空。
「手放せないって言ったでしょ」
この関係に未来が見えなくても。
美空に、必要ないと言われるまで、ずっと傍にいる。
無視されていた頃に比べたら、笑いかけてくれるだけいい。
「玄関まで送る」
「ここでいいよ。明日、学校で」
「……うん。ごめんね」
泣きたいのを我慢した美空の笑顔。
それ以上に泣きたい十玖の心境を慮って、必死にこらえていると知れる。
気まずくなるために来たわけじゃないのに、そう思うと二人の関係に不協を招いた奴らが、憎くてたまらない。
来月、初公判がある。
証人として召喚命令が来ていた。
目の前にしたら、殴り殺してしまいそうだ。
(殴り殺したって、美空の傷は消えない……!)
斉木家を後にして、十玖は全速で走り出した。