不器用な僕たちの恋愛事情
あれから何度もトイレに逃げ込まれ、生ける屍にいい具合に仕上がった十玖を晴日が眺め下ろす。
美空と十玖の様子が変なのは気がついていたが、ここまで十玖にダメージが出てるとは思ってなかった。
美空は晴日を一瞥すると、カバンを持って出て行ってしまった。恐らく部活だろうが、晴日まで無視するほど、お怒りな様子に黙っちゃいられない。
「おい十玖」
「あ……晴さん」
生気のない顔と声。
やつれ切った十玖を見るや、晴日は喝を入れる気満々だったのに躊躇した。
「美空とケンカか?」
「許してくれるなら、ひたすら謝ります」
「プライドはないのか?」
「ないです」
「即答かい」
グダグダしてる十玖は見てからかう分には面白いが、これが美空に関係するなら、兄としては無視できない。
これからライヴもある。尚更だ。
「不抜けてないで、行くぞ」
返事もしないで机にへばり付いてる十玖を無理やり引き離すと、ヘッドロックし、もう片方で十玖の荷物まで持って教室を出た。
昇降口で竜助と合流し、いつもならバスで行く道のりをタクシーに変更し、十玖を詰め込むと謙人宅の音楽室に向かった。
ソファーに転がる生ける屍を眼下にし、三人より遅れて帰宅した音楽室の主、謙人は音叉で十玖の頭を叩く。
振動する音叉の丸い尻を十玖の頭にくっつけると、骨振動できれいなAの音が響いた。
「…ラだ」
「惚けていても音は認識するんだ?」
「思い切り響いてきますもん頭」
耳で聞くよりはっきり聞こえる。
「十玖、体調悪いの?」
「そう思うならなぜ音叉で叩きますかね?」
「面白そうだったから」
そういう人だったと今更思い出し、嘆息する。
ここまで美空に拒否られるなんて、正直、練習なんて気分じゃない。
謙人は事の次第を晴日に訊ねている。
晴日も詳しく知らないので、美空と何かあったくらいしか言いようがなかった。
タクシーの中でも聞き出そうとしたが、貝のごとく口を閉ざしたままだったのだ。
「いっそクーちゃんに聞いた方が早くね?」
痺れを切らした竜助の提案。
頑固な十玖の口を割るのは生半じゃない。
「止めて下さい!」
咄嗟に却下してしまった。当然、矛先は十玖に向くわけで、
「なら白状せぇや」
チンピラのような絡み方をしてくる竜助を一瞥し、
「言いたくありません」
「あぁん? どの口がほざいた。お前がそんなじゃみんなが迷惑するんだよ」
竜助の言うことは最もだ。
自分はA・Dのヴォーカルなのだから。
「お前プロだろ」
「……すみません」
のそりと起き上がった十玖は、腰掛け直して深々と頭を下げた。
晴日は十玖の隣に腰掛ける。
「音楽バカに美空を蔑ろにされるのは我慢できないけど、仕事を蔑ろにされても困る。引っ張り込んだ手前、二人には申し訳ないと思ってるから、これでも結構心配してるんだぞ。仕事とかのせいで行き違いがあるんだったら、協力するし」
晴日が心底心配してくれているのは分かる。
でも二人の事は、自分で何とかしないといけないと思う。
「ありがとうございます。気持ちだけ頂きます」
と言ってる傍から、晴日が美空に電話してる。しかもスピーカーだ。
「美空。お前十玖と一体何あった?」
『う……うるさい! お兄ちゃんには関係ないでしょ。ほっといてよ』
「関係なくないから聞いてんじゃないか」
『知らないっ。十玖のバカって言っといて』
一方的に通話終了となり、三人の視線が痛いほど注がれる。
「バカって何やらかしたんだい?」
仏のような微笑みの謙人が、正面から詰め寄ってくる。
隣の晴日はがっしり肩を組んできて、反対側では竜助が退路を塞ぐ。
「クーちゃんの口から言いづらい事、だよね? クーちゃんの口振りからすると」
ジリジリと迫ってくる謙人。
「クーちゃんは俺たちにとっても可愛い妹だよ? 事と次第によっては、殴るかも知れないけど構わないかな?」
「殴られて美空が許してくれるなら、どうぞ殴って下さい」
「だから理由を聞いてるんだよ。理由も分からないで殴ったりしたら寝覚めが悪いでしょ」
押し問答の末、結局、十玖は白状するに至ったのだが、三人の予想以下の結果だったらしく、殴られるどころか慰められた。
「女にはわかるまいが、心と体が必ずしも一致じゃないからねぇ」
目の前にしゃがみ込んで頬杖をつく謙人。
「女子にありがちな反応だから気にするな。なっ?」
わしゃわしゃと竜助が髪をかき混ぜる。
「女なんてのは、自分からちょっかい掛けて、やっぱダメなんて常套手段使う残酷な生き物なんだから、そう落ち込むことない。男なら一度や二度は経験するもんだって。俺なんて何度肩透かし食らったことか」
憤懣やるかたないと言った風情の晴日の力説には、苦笑が浮かんでしまう。
(この人たちでも、そんな事あるんだ)
モテる人たちでも、自分とそう変わらないんだと安心させてくれる。
ふっ、と晴日は真面目な面持ちになった。
「ただ美空の事だから、自分では仲直りのきっかけ掴めないと思うから、諦めないでやって」
兄らしい言葉。
言われるまでもなく、諦める気なんてこれぽっちもない。
「もちろんです」
翌日の土曜日。学祭一日目。
やっぱり美空はトイレに逃げ込み、ホームルームギリギリに戻って来たので、さすがの十玖もキレた。
(埓があかないッ!)
頑なに拒否る美空をガン見する。
かくなる上は、最終手段だ。
申し訳ないけど、話を聞いて貰わないことには、何の解決も見い出せない。
美空と時計ばかり気にして、担任の話も実行委員の話も、さっぱり聞いていなかった。
ホームルーム終了のチャイムの一音目が鳴ると同時に立ち上がり、意表をつかれて次のアクションが遅れた美空をかっ攫うように肩に担ぎ上げ、十玖は教室を飛び出した。
美空の悲鳴が尾を引いた教室では、茫然と見送った教師と、歓声と嬌声を上げる級友たちが残された。
十玖は美空を軽々と担いだまま、屋上まで駆け上り、ようやく彼女を下ろした。
ボサボサに乱れた髪の美空は、十玖の思わぬ行動に茫然自失のまま微動だにしない。
「こんな事してゴメン」
手櫛で彼女の髪を梳きながら、視線を美空に合わせる。
「こうでもしないと美空、話聞いてくれなさそうだったから」
美空は、キッと十玖を睨みつけた。
その顔が、付き合う以前の美空を思い返させて、十玖を切なくする。
パシーンッ!!
十玖の目に火花が散った。
左の頬の熱を帯びた痛みで、ビンタを喰らった事を知った。
「こ…怖かったじゃない! 口から魂出そうになったわよ」
うるうると涙を浮かべる美空を見て、胸がギュッとなり「ゴメン」と呟く。
「僕の事、嫌いになった?」
情けないほど消沈した声。
それでも、意を決した彼は、美空が顔を逸らせないように、両手で頬を包んだ。
「でも僕は美空が好きだ。もの凄く好き。美空は嫌悪感を感じるかもしれないけど、それでも正直抱きたいと思うのも、愛したいと思うのも、優しくしたいと思うのも美空しかいない。僕を愛して欲しいのも美空だけだ。美空を怖がらせてしまった事は、何度だって謝るから、触るなって言うなら触らないから…僕を拒絶しないで。お願いだから」
潤んだ瞳が真摯に美空を捉える。
しばらく無言だった美空は、小さくため息を漏らした。
頬を包む手を下ろし、俯いた彼女は何度も言い淀みながら、ゆっくりと言葉を繰り出した。
「……嫌いじゃ…ないよ。でも、怖かった。アイツ等と違うって、頭では分かってても、十玖が男の人なんだって、急にリアルに感じたら……凄く、怖かった」
自分の腕を抱いて震える美空は、とても頼りなげで小さく見える。
そんな彼女を抱き寄せたい衝動を抑えながら、美空の言葉を待った。
「初めては…十玖が良かったって、何度も思った。十玖と…ひとつになりたいって、思うけど……思うんだけど、まだ、あの悪夢が消えないの」
両手で顔を覆ってうずくまる美空を見下ろし、唇を噛み締める。
心に深い傷を残した犯人たちに、これまでも感じた怒りと殺意。
気付けば手のひらに赤く爪痕が残っていた。
十玖もしゃがみ込んで、覆う美空の手を下ろす。
「ゴメンね。怖がらせたいワケじゃないのに、勝手に反応しちゃって…って結局、僕の願望なんだけど、美空が大事なのは分かって。美空が傍にいてくれないと、ホント、ダメダメなんだ」
コツン、と美空の頭に額を合わせる。
「傍にいてよ」
切実な願い。
美空は恐る恐る十玖の頬に触れた。
「痛い?」
美空の手に手を重ね、十玖は「平気」と微笑む。
「ゴメンね。大好きよ、十玖」
「僕はもっと大好きだからね」
視線が絡まり、キスしたい衝動に駆られるが、今度また美空に拒絶されたら死亡フラグ間違いない。
ぐっと堪えて、美空の手を取り立ち上がった。