不器用な僕たちの恋愛事情
*
ビンタ一つで収束した、犬も食わない痴話喧嘩に興味津々ではあるものの、翌日まで腫れが引かない強烈な一発を繰り出した美空を含め、十玖をからかう勇者はいない。
ただし、激怒する者は、いた。
学祭の一般公開当日だっていうのに、まったく腫れが引いていなかったので、苑子は頭を抱えて怒声を上げた。
これに関しては美空も肩身が狭い。
「ちゃんと冷やしたの!?」
「冷やしてない。昨日ライヴで疲れて、そのまま寝た」
「バカとーく! 午前中、あんたにマレフィセントで練り走らそうと思ってたのに、なんてブサイクなの!? 顔が取り柄なのに~ぃ」
「聞いてないから! マレフィセントって何っ!?」
「魔女よ」
「それは知ってる。だから何で僕!? 採寸なんてしてないよね?」
「あんたのサイズなんて、図らずとも分かるわ」
ニヤリと笑う苑子。
「母さんを買収したな」
「ほほほ。断ったら、家に帰れなくなるわよ。家なき子になる?」
長年一緒にいた二人にしか分からないやり取り。
美空でも分かるのは、母 咲に彼は絶対服従という事。
渋ってる十玖を屈ませて、苑子が耳打ちする。見る見る間に彼は青褪め、観念したように膝を着いた。
「やります」
「最初から素直にそう言えばいいのに。じゃ、これに着替えてね」
衣装を渡され、簡易更衣室を指さされた十玖は、重い足取りで向かった。
「メイク~。とーくの顔何とかなるよね?」
「なるなる。任せてぇ」
「美空ちゃん。カメラ持ってた?」
「ある」
「おばさん仕込みの絶世の美魔女、見せたげるから、しっかり撮ってね」
小首を傾げて、邪気のない笑み。
間もなく、着替え終わった十玖が不貞腐れた足取りで出てくると、女子の矯声が上がった。
まだメイクもしていない状態で、長身の美女が出来上がってる。
男子は中身が十玖だと知りつつ、ぼうっと見惚れていた。
「胸がある」
感想はそこか? というツッコミを入れたくなる美空のボケに、苑子はケラケラ笑って、
「胸パッド縫い付けてあるから」
「そうなんだ」
マジマジ見入る美空に、十玖は何とも情けない顔をした。
十玖の肌を間近に見た女子は寄って集って褒めちぎり、「腕が鳴るわ~」と仕事に取り掛かる。
その様子をつぶさに収めようとしてしまうのは、カメラマンの性なのか。
「美空。なに撮ってるの?」
珍しく十玖が美空を睨む。
しかし美空は何とも思ってないようだ。
「あたしの仕事だし」
「美空は準備ないの?」
「写真部で動き回るから、受付なの」
「狡くない?」
「何で?」
「僕だって忙しいのに」
「うん。頑張ってね」
悪気のない笑顔に打ちのめされた。
そうこうしているうちに、マレフィセントが完成した。
頬の腫れはどうしようもないが、赤みは上手く消されている。
完成された美魔女をしげしげ眺め下ろす。
「十玖、綺麗よ」
「嬉しくない」
顔を隠すように美空の腰に抱きつくと、女子の悲鳴が上がった。
「なんか倒錯的」
「ちょっとカメラカメラ」
スマホで撮影会が始まってしまった。
苑子も美空のカメラを借り、ポーズの注文を出し始め、美空もそこは晴日の妹。調子に乗って嫌がる十玖を従わせ、ポーズを取って見せる。
十玖には耐え難い苦行のような状況も、他の男子からしてみれば、女子に囲まれて羨ましい限りである。
撮影会が終わると、完全に不貞腐れたガラの悪い魔女が出来上がっていた。
「ちょっととーく。ドレスたくし上げて足組まないでよ。シワになる」
苑子は、組んだ太腿にチョップをくれたが、思いの外硬かったため筋肉の返り討ちを食らって、手を振った。
「裾が邪魔。切っていい?」
「やったら殺すわよ。はいスタンプ」
紐付きのスタンプを渡され、首に掛けて胸にしまう。
苑子は十玖の両肩に手を置いた。
「とーくのスタンプは王冠ね。王冠スタンプ先着三名様に魔女とーくの写真プレゼントなんで、死ぬ気で二時間逃げ切ってね?」
「後出し止めてよ」
「さっき思いついたんだもん」
あんぐりと口を開けた十玖が、呆然と苑子を見た。
苑子の行き当たりばったりには、毎度振り回され泣かされる。
校内放送が流れ、一般の来場が知らされる。
仮装大逃走の戦いの火蓋は、こうして切って落とされた。
始まって数分は、美空と一緒に見て回れるほどに静かに歩いていた。
ところが、校内放送のアナウンスが流れた途端、十玖は必死の形相で逃げることを余儀なくされた。
仕掛け人は苑子だ。
「仮装スタンプラリー、十一時までマレフィセントはA・Dのトークで~す。彼からスタンプを貰った方、先着三名様にトーク魔女の写真をプレゼント! 奮ってご参加下さ~い」
と言うアナウンスがしつこく流れるのだ。
ドレスの裾をたくしあげ、同じく必死の形相で追いかけて来る客から逃げ回る。
あっちからもこっちからも敵はやって来る。
挟み撃ちにされ、逃げ場を失った十玖は、廊下の二階の窓から飛び降りた。
あまりに華麗に飛び降りたので、感嘆の声が上がったが、構ってる余裕などない。スタスタと走り去る。
当然、校庭にも客はいる。
ターゲットが飛び降りてきたとなれば、追いかけずにおらりょうか。
「お~十玖。大変だねぇ」
謙人たち三人が、にこやかに手を振って近付いて来た。
頭の中で警鐘がなる。
十玖は踵を返し、三人を背中に走り出した。
「十玖。なぜ逃げる!?」
晴日は笑いながら追い駆けて来る。その後に謙人と竜助。
しかも晴日は、スマホで動画を撮りながら追って来るから始末に悪い。
「僕を売る気でしょ」
「やだねぇ勘の良いヤツわ」
「あなたたちだけには死んだって捕まりませんから!」
A・Dが一固まりになって、走り回る姿が目に止まらぬ訳がなくて、さすがの十玖も疲弊し始めていた。
飛び降り、飛び越えを繰り返し、ようやく巻いたのは残り時間十五分前。
一時間半の全力疾走は、さすがに堪える。しかもドレスが邪魔で仕方ない。
「有理。少し休ませて」
保健室の窓から侵入すると、机に向かっていた有理が振り返る。
「お姉さまと呼んだら居てもよし」
「お姉さま。お願いします」
「よかろう」
有理は立ち上がって、十玖の手首を取ると脈を測り始めた。
「問題なし。随分逃げ回ってるみたいね?」
言いながら、十玖の首の紐を引っ張り出し、白衣のポケットから取り出したスタンプカードにポチッと押す。
十玖は唖然と有理を眺める。
スタンプカードは何故か満了。
「何で?」
「ここで待ってれば、みんな一回は逃げ込んで来るもの。あたしは十玖を追い駆けるなんて心臓に悪い事したくないわ」
「うわっ。ここにも女郎蜘蛛がいるよ」
「ここにもって……お義母さんとあたしの事? 聞き捨てならないわね」
有理は片眉を上げ、スタスタと廊下に続く引き戸を開けた。
「マレフィセントはここですよーッ!」
「意地悪いな」
「ふふん。走れ若者」
有理の脇をすり抜け、十玖は自分の教室に向かって再びダッシュした。