不器用な僕たちの恋愛事情
ギリギリ一時限目の前に教室に滑り込んだ二人は、席に着くや大きく息を吐いた。
「十玖。さっきより傷が増えてないか?」
太一に言われて、口元に触れる。
「ああ。有理の見事なフックを頂いた」
「保健室に行って怪我してくる奴、そういないぞ?」
「まあ僕と亜宮ぐらいじゃない? 有理に殴られるのなんて」
下手に生徒を殴ったら問題だ。いくら血の気が多い有理でも、その辺は心得てる。
「そもそも十玖が顔を殴らせるなんて、驚きなんだけど」
十玖の動体視力なら、有理の拳の軌道は見えていたはずだ。男の拳は躱せるのに、女の拳は躱せないなんて事ない。
「うーん。姉さんを怒らせるような事言ったから、当然の報い?」
「怒らせた?」
「もたもたしてたら僕の方が早く結婚するよって」
クラス中が聞き耳を立ててる中で、平然と言ってのける。
教室がひっくり返りそうな驚きの声。
太一は目を見開いて、目の前の幼馴染みに見入り、苑子は十玖と美空を交互に何度も見た。
「おまっ…」
言葉が続かない。太一は美空を振り返り、やっぱり二の句が継げないでいた。
背中の傷が、何の傷だか分からないほど子供じゃない。が、しかしあまりに物事を性急に進めようとしているようで、心配になる。
十玖はくすくす笑った。
「例えばの話だよ」
「…だよな。いくらなんでもそおだよな。俺らまだ十六だし」
「まだ十六なんだよね」
机に頬杖をついて、「長いな」と呟いたのを太一は聞き逃さなかった。
「そおゆーの視野に入れて付き合ってるわけ?」
美空はいい子だと思うし、十玖ともお似合いだ。もちろん長く付き合って欲しいとも思うし、この幼馴染みが生真面目なのは知っている。
(けど一人に決めてしまうには早過ぎるだろう?)
「席に着け~っ」
教科担当の教師が教壇に立つ。
太一の問いに答えず、十玖はゆったりと微笑んでいるだけだった。
昼休み。十玖は有理に言われたように、保健室に消毒に行った。爪の傷は侮ってはいけないらしい。一つや二つの傷ではないし、裂傷もある。
そして美空は困っていた。
朝の十玖の何気ない一言が、波紋を呼んでいた。
十玖が美空にベタベタなのは、もうみんなの知るところだが、二人の関係が結婚云々の話題が出るほど進んでるのか? と言うところに興味が集中しているようだ。
何しろつい最近、謙人が婚約したばかりだ。気になるのは無理からぬ話。
十玖がそれを匂わすようなことを美空に言うのは常だが、例え話だったとしても堂々と言いのけてしまうとは。
さすがに学年トップクラスなだけに、冷やかすような子供じみた事をするような生徒はいないが、事がA・Dのトークとなれば、真相を知りたい女子が集まって来る。
「だから、そんなんじゃないからぁ」
この言葉も何回目だろうか?
「十玖が、鈴田先生を煽っただけで。お兄さんと早く結婚して欲しいだけだから」
と言えば、今度は有理に憧れている男子のブーイングの嵐になる。
ほとほと困った美空に、苑子が助け舟を出した。
「天駆兄ちゃんに勝てるのあんた等? うちの校則を改革した人だよ? 卒業してなお校長や教頭を黙らせるような人に、勝つ自信あるの?」
そう言われると答えに窮する者ばかりだ。
進学校にありがちな、閉鎖的な校風を一掃し、生徒の自主性を尊重し、バイトすらも条件付きで、内申書に反映するシステムを構築した。
その恩恵を享受している生徒は多い。A・Dが活動できるのも、そのお陰だ。
「とーくだって結婚できる年になるまで、最低二年はあるのに、今から大騒ぎしてどーすんのよ! それまでに美空ちゃんに愛想を尽かされるかも知れないじゃない」
「苑子ちゃん…」
「斉木さん。愛想尽かすなら早めにお願いっ」
本気で詰め寄る女子たちに、美空はたじろいだ。
「え…? それはちょっと」
愛想を尽かす以前に、妊娠してたらどうしましょう、とは言えない。
ふと下腹に触れた。
十玖を何度も激しく感じた余韻が残っている。愛おしい余韻が。
激しい息遣い、熱を帯びた肌、乱暴な扱いをしながら、傷を付けない様に優しく愛撫する指先。何度も突き上げられていくうちに、痛みから快感に変わった瞬間、自分から十玖を欲した。
彼が嬉しそうに微笑むのを見て、心底愛しいと思った。
「十玖に愛想をつかす要素がないから無理」
臆面もなく言う美空に、やっかむ女子がぎゃーぎゃー騒いでる。
「その逆なら有り得るかも知れないけど」
「そんなのある訳ないじゃん。中二の時から美空ちゃん一筋なのに。とーくと別れようと思ったら、ヤツ殺さなきゃ無理じゃない?」
物騒な事をさも当たり前のように苑子が言うと、美空も「そうかも」と無意識に同意してる。
結局、このバカップルの間に入り込む余地がないと知るや、女子たちは急にバカらしくなったようだ。バラけて教室中に散って行った。
「苑子ちゃんありがと。助かった」
「べっつにぃ。あのバカまだ戻ってこないの? 美空ちゃんほったらかして」
「あたしは大丈夫だから。お昼食べよ?」
女子に問い質されていて、二人ともまだだった。
太一は素知らぬ顔をして完食済みだ。
二人が食べ始めて間もなく、保健室から十玖が戻ってきた。
明日のライヴのリハーサルのため音楽室に集まった。
十玖が週番で遅れて来るや、ニコニコして気味の悪い兄さん連中が十玖を座らせ、首を揃えて目の前に座る。小さなビニールの袋を十玖の前に突き出すと、謙人が口を開いた。
「童貞卒業おめでとう。ささやかだがプレゼントだよ」
一瞬、言葉の意味を理解できずに、三人をマジマジと見入ってしまった。差し出されるまま袋を受け取り、中を見てソファーからずり落ちた。
急に恥ずかしさが込み上げてくる。
普通セックスは当人同士の秘め事のはずなのに、何でこうも簡単に周囲にバレ捲ってしまうのか。
背中を見られた時点で、隠し通せるとは思っていなかったが、祝われるとも思っていなかった。
「何なんですかーぁ!?」
「ゴムだよ」
謙人がニコリと言う。
「見たらわかります。僕だって! だから何でこんなに入ってるんですか!?」
「一人一個ずつ買ったからだろ。バカか?」
竜助がにべもなく言う。
(確かに…三個……三種類って、何故?)
この人たちは、どんな顔をして買って来たのだろう? 三種類も。
袋の中身をガン見してると、晴日がニヤニヤしながら十玖の肩を肘置きにし、袋を覗く。
「好みが分からないからさ。まあ心置きなくやってくれ」
美空の兄に心置きなくと言われ、はいと答えられるものか。
首まで真っ赤の十玖を、完全に揶揄(からか)ってるとしか思えないが、彼らなりに喜んでいるのだ。
A・Dには、二人に重荷を背負わせてしまった負い目がある。
「色ボケすんなよ」
竜助がドラムスティックで十玖の頭を叩く。十玖は頭を押さえ、上目遣いで見返した。
「わかってます」
美空をわざと妊娠させたかもしれないのに、コンドームをプレゼントされるというのも決まり悪いものだ。
本当に妊娠でもしていたら、この人たちに半殺しにされる覚悟は必要かもしれない。
どちらにしても、彼女をなおざりにして己の欲望ばかり先行させていられない。美空は受け入れると言っていたけど、簡単な事じゃないはずだから。
正直、抱きたい気持ちはいつでもあるけれど。
(ここは取り合えずお礼を言っておくべきか?)
しげしげと袋を眺めつつ、微妙な気持ちを押し隠す。
「お心遣い感謝します」
会釈して袋を小脇に置いた。それを晴日が取り上げ、十玖のカバンの中に押し込んだ。
「こーゆーモンはさっさと仕舞え」
「はあ」
「家に帰ったら忘れず出せよ。風紀に見つかったら、どんだけ好きもんとか思われっから」
「……気を付けます」
笑顔が引き攣った。
それを恐らく平然と制服姿で買って来たであろうこの人たちを、ある意味尊敬する。
店員は、一体どう思ったのだろう…?
帰りが一緒じゃなくて良かった。
「んじゃ始めよか」
謙人の号令で、各自スタンバる。
竜助のカウントでリハーサルが始まった。