遠い昔からの物語

「昨日の晩、寝床に入ってさあこれから、っていう時に、うちの婚約者(エンゲ)には参ったわ」

おれが麦酒(ビール)の瓶を傾けると、神谷がコップを手にして云った。

「いきなり、日本はアメリカと戦争すんのか、ときた」

「ほう……」

おれは麦酒を奴のコップに注ぎながら、目を細めた。

屑鉄(くずてつ)に続いて、今月からアメリカが油を売らんようになったからな」

先月に南部仏印(フランス領インドシナ)へ進軍した日本に対する、アメリカの報復措置だった。

「支那との戦は陸軍の仕事だが、アメリカが相手だと海軍の仕事になる。それが、気がかりなんだろうよ」

神谷は無言でそれを聞き、コップの中の泡立った琥珀色の麦酒をぐいっと一気に呑み干した。

「……で、貴様はなんと答えた?」

おれはニヤッと笑って訊いた。

(いくさ)に征かぬ女には関係ない、そんなこと考えんな、と云うた」

神谷は、苦虫を噛み潰したような顔で答えた。

「ま、そう云わんと仕方なかろうな」

おれは苦笑しながら、奴にもう一杯注いでやった。

「貴様の婚約者(エンゲ)は大人しそうやから、そういうこと訊かへんやろ。うちの薫子(ゆきこ)みたいに、気ぃ強うて頭でっかちなのも考えもんや」

神谷はそう云って、また一気に呑み干した。

「大金持ちの一人娘を、親の反対押し切って奪い取ったくせに、今更(いまさら)なに云ってんだ」

相手の武藤(むとう) 薫子の家へ婿養子に入ることになったとは云え、本意を完遂した奴に対して、おれは一笑に付した。

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