マドンナブルー
マドンナブルー
顔の皮膚をなでつける生ぬるい風に目を細めながら、吉岡咲羅は桜吹雪の中を歩き進んだ。寒さの厳しい仙台にも春が訪れ、ようやく桜が満開になったというのにこの強風である。ひょっとしたら、今年の桜は今日で見納めかもしれない・・・・・・。そんな不安を抱き、立ち止まり、美しい景色を胸に焼き付けようと見つめた。彼女が二歳のとき、父が亡くなった。彼女は幼すぎたため、父の記憶はほとんどない。その父が、桜の季節に生まれた彼女を「咲羅」と名付けた。そのため彼女にとって、この時期は特別なのだ。

「おはよう咲羅。なにたそがれてるのよ」

 親友の高木美奈子が、咲羅のおしりをバッグでたたいた。

「もう!美奈子ってばおどかさないでよ」
「だって咲羅ボーとしてるんだもん。時間やばいよ」

 咲羅が腕時計に目をやると、八時二十分をさしていた。

「あと五分しかないじゃん!」

 二人は小走りになった。この緩い上り坂をひたすら進んだ先に、彼女たちの通う高校がある。点々といる他の生徒も皆、小走りとなっていた。

「美奈子、昨日及川さんとデートだったんでしょ?」

 咲羅は弾ませた呼吸の隙間から、好奇心に満ちた声で言った。及川とは、美奈子が一ヶ月ほど前から付き合っている大学生だ。咲羅の目に、意志の強そうなキリッとした美少女の横顔が映る。美奈子は身長が百六十八センチもあり、彼女よりだいぶ小さい咲羅は少し首をもたげた。美奈子の頬が赤く染まった。

「赤くなった!何かあったんでしょ」
「ふふ。後で話すね」
「気になるよぉ。今話してよ」

 二人が恋話で盛り上がっていると、怒声が飛んできた。

「吉岡!高木!へらへらして余裕だな!もう鐘が鳴るぞ!早く行け!」

 体育教師の今村だ。野球部の顧問である彼は、上下グレーのジャージを着て、竹刀を肩に担いでいる。昔の学園ドラマのような時代遅れの風体だが、彼には体育教師はこうあるべきという固定観念があった。

 咲羅と美奈子は、鐘の音と同時に校舎に滑り込んだ。今日は高校二年生の初日だ。彼女たちの通う高校は、海岸から二キロほど離れた高台にある。もともとは、海岸から数百メートルの場所に旧校舎があったのだが、三年前に起こった大震災の津波による壊滅的な被害で、高台に移転したのだ。咲羅の入学と共に完成した真新しい校舎は、一点の曇りがない。

                   ****

 全校生徒は体育館に整列し、朝礼を受けていた。校長の毎度の長い話の最中だ。

「美奈子、さっきの話の続きを聞かせてよ」

 咲羅は小声で、前に立つ美奈子の背に投げかけた。美奈子は首だけを咲羅のほうへ向け、

「ふふ。及川さんとキスした」

 咲羅はキャーという声を口の中に押し込めるように、両手で口を覆った。

「キスするのってどんな感じ?」
「うーん。初めはよかったんだけど、途中からアレが入ってきたから驚いちゃった」
「アレって何?」

 美奈子はやれやれとあきれた顔となり、

「舌よ舌!もうそこまで言わせないでよ」

 朝礼の最中、二人はきわどい会話をしているようだが、体育館は多くの生徒の話し声であふれており、他の生徒に会話の内容を聞かれる心配はなかった。

「私の話ばかりに興味を持たないで、咲羅も彼氏作りなよ」

 咲羅は、美奈子の言い分はもっともだと思った。しかし、咲羅は自分も彼氏がほしくて美奈子からあれこれと聞き出しているわけではない。ただ、そういう色恋話は盛り上がるのだ。ほんのコミュニケーションのつもりだった。

「及川さんの友達、誰か紹介してもらおうか?彼女をほしがってる友達がいるんだって」

 咲羅は以前にも数回、美奈子から同じ話を持ちかけられたが、そのつど断ってきた。気持ちが動かないのは今回も例外ではない。

「今はバイトも部活も忙しいし、彼氏を作る余裕なんてないよ」

 咲羅の毎度の言い訳に、美奈子は不満顔となる。美奈子は何か言おうと口を開いたが、体育館の壁を震わせるほどの今村の怒声でその言葉を飲んだ。

「おまえらー!静かにしろー!」

 急に静まり返った館内では、いまだに校長の長話が続いていた。退屈な話がようやく終わると、新任教師の紹介となった。ざっと十五人ほどの新任教師たちが、ぞろぞろと壇上へと上がっていく。

<そういえば、新しい美術部の顧問、どんな先生かな・・・・・・>

 咲羅は美術部に籍を置いていた。昨年度まで顧問を務めていた美術教師の佐藤が寿退社したため、あらたに美術教師を迎える予定なのだ。

 咲羅は、壇上にしつらえたイスに腰掛けている新任教師たちの顔を、値踏みするように観察した。そして一人に目星をつけた。華奢でスレンダーな美人だ。美術教師の特徴に定義などないが、佐藤がそれらの特徴を兼ね備えていたため、咲羅の中での美術教師の特徴は固定化されていた。しかし、その美人は数学が担当であると自己紹介した。

 次の教師は、かなり大柄の男性だった。身長は百九十センチはありそうだ。がっちりとした筋肉質な体型で、プロレスラーを彷彿させられる。黒っぽいスーツに身を包んだ彼は、着慣れないのか窮屈そうにしている。

 筋骨隆々な体格に似合わず、その教師の表情は意外なほど穏やかで優しそうだった。済んだ大きな目には、少年のようなあどけなさも残っていた。そんな彼の、たくましさの中にある優しさに、咲羅は父親の影を見た。憧憬の念を抱き、しばし彼に見とれた。咲羅は、自分が包容力のありそうな男性に惹かれるのは、自分が父親の愛に飢えているため、その男性に父親の影を探してしまうのだということを自覚していた。そのため、決して恋愛感情ではないのだ。

 彼が体育教師だということは、容易に推測できる。その彼が自己紹介を始めた。

「皆さんはじめまして。安藤勝則と言います。僕はいつも体育教師に間違えられますが、美術を担当させていただきます。大学時代は洋画を専攻していました。ルノワールやモネなどの印象派の画家が好きです。皆さんに美術の楽しさをたくさん伝えていけたらなと思っています」

 安藤という教師は、さわやかな笑顔を浮かべ、控えめで穏やかな口調で話した。その様子から、彼の内面の優しさがにじみ出ていた。一方、生徒たちは呆気に取られた。彼の外観と穏やかすぎる口調がかみ合わない。その上、誰もが体育教師と疑わなかったのに想定外の美術である。しかも、繊細な作風の『印象派』の画家が好きときた。せめて、鮮烈かつ大胆な作風の、『野獣派』のゴッホやゴーギャンが好きと彼が言っていたら、ここまでの違和感を感じることはなかっただろう。

 静寂の館内に、不意をつかれた生徒たちの笑いが広がった。その笑いはしだいに大きくなる。安藤はその笑いの意味が分からず、困惑顔となった。そんな大男のおどおどする様子が滑稽で、彼の姿がかわいらしく咲羅の目に映った。
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