マドンナブルー
 放課後、咲羅と美奈子は美術室に立ち寄った。彼女たちが行くと、すでに同級生の姿があった。梅田陽一と杜健介だ。梅田はさわやかな笑顔を彼女たちに向ける。一方の杜は、気だるそうに机の上にどっかりと腰を下ろしていた。二年生の美術部員が全員そろった。偶然にも、皆同じクラスとなった。彼女たちの話題は、しぜんと異色の美術教師の話題となる。

「安藤先生だっけ?なんか面白そうな先生よね」

 美奈子が振った話題にすぐさま杜が食いついた。

「プロレスラーが来たと思ったよな。今村よりずっと強そうだし。ていうか、今村ってぎゃんぎゃんほえて、ただ威嚇してるだけって感じしねえ?」
「するする!」

 美奈子は笑いながら相槌を打った。この高校では部活動は必須である。なんらかの部に所属しなくてはならない。杜は、籍だけを置くつもりで美術部に入部した。中学時代、けんかに明け暮れていた彼は、いわゆる不良だった。

<部活なんてやってられるか!しかも美術部なんて、そんなダサいまねできるか!>

 そう考えていた彼は、一年の二学期になっても一度も美術室に顔を出さなかった。そんなある日、彼と同じクラスだった美奈子が、ぴしゃりと彼に言い放った。

「籍はあるのに来ないなんて、幽霊みたいで気持ち悪いのよ!部活をする気がないのなら、さっさと退部しなさいよ!一生懸命やってる人たちに失礼だわ!」

 杜はその瞬間、雷に打たれたように美奈子に恋をした。美人で気の強い美奈子に、彼の心は一瞬で奪われた。美奈子に会いたい一心で美術室に通うようになった杜は、幾度となく彼女にアタックするも、それとなくはぐらかされてきた。

 もう一人の部員の梅田が、咲羅に尋ねた。

「吉岡は、もう県展の題材決めた?俺、今度は本気で優秀賞ねらってるんだよね」

 梅田は血の気の多い杜とは対照的で、いつも物腰柔らかだ。その様子から、彼の育ちのよさがにじみ出ている。

「私は海を描こうと思ってる。夕暮れの浜辺に、美女が物憂げにたたずんでるような・・・・・・」
「情緒的でいいね。俺は静物画にするつもりなんだ。徹底的に描き込んで、リアルさを追求しようと思ってるんだ」

 四人がめいめいにおしゃべりをしていると、ガラガラッとドアの開閉音がした。彼らは話を止め、ドアの方へ目をやった。安藤だった。長身の彼は、少し頭をかがめて美術室に入ってきた。目の前で見る彼は、朝礼で見たときよりもずっと迫力があった。四人は珍しいものを見るように、ぽかんと安藤を見上げていた。安藤が初めに口を開いた。

「やあこんにちは。美術部のこ?」

 さわやかで、柔らかな口調である。美奈子が最初に自己紹介を買って出た。

「安藤先生はじめまして。高木美奈子です」

 彼女は立ち上がると、安藤に握手を求めた。美奈子は、誰かと自己紹介をするたび握手を交わすわけではない。安藤の、紳士的な雰囲気がそうさせた。安藤は、自分は受け入れられたのだという喜びを満面に表し、美奈子とかたく握手を交わした。続いて杜が、美奈子にならって立ち上がり安藤と握手を交わした。

「杜健介です。よろしく」

 安藤の握力を探るように、杜は手に力を込めた。そして血が騒いだ杜は、

「先生とけんかしてみたいな」

 と付け加えた。安藤は苦笑し、

「僕はけんかなんてしないよ」

 と穏やかに返した。それから梅田と咲羅が続いた。慣わしのように差し出された安藤の大きな手のひらに、咲羅は一瞬ためらった。その手の中に、体全部をすっぽりと包み込まれるような、ときめいた気持ちになったのだ。しかし、そんな心境を悟られないよう平静を装い、安藤の手のひらに自分の手をそっと重ねた。彼の手はごつごつと粗い感触がした。血管を流れる血の熱さが伝わってくるようで、彼の顔を見ることができなかった。

 それから五人は、お互いを知るための他愛のないおしゃべりをした。安藤について分かったことは、年齢は三十四歳。三人の姉がいるということ。好きな作家はシドニィ・シェルダン。好きな映画は『ニュー・シネマ・パラダイス』。学校から五キロほどのアパートに一人暮らしで、雨が降らない限り自転車で通勤することなどだった。

<独身なんだ!>

 反射的に咲羅はそう思った。しかしすぐに、だから何なのだと思い直した。

「俺もシドニィ・シェルダン読んだことがあります。たしか『ゲームの達人』ていう本。何気なく読み始めたら止まらなくなりました」

 読書好きの梅田が言った。

「どれも傑作だけど、僕は『真夜中は別の顔』が好きだな。機会があったらぜひ読んでみて」

 安藤は笑顔で話した。そして彼は急に真顔となり、「ところで・・・・・・」とためらいがちに切り出した。

「今朝の朝礼で、僕が自己紹介したときに皆笑っていたけど、どうしてか知ってる?僕は何かおかしなこと言ったかな・・・・・・」

 部員四人は顔を見合わせると笑い出した。その様子に、安藤はさらに不安な表情となった。

「違うんです先生。あまりにも意外だったもので。先生みたいな人がルノワールを好きだなんて」

 咲羅は笑いながら、途切れ途切れに話した。

「先生はどう見ても体育教師です。だから、皆意表をつかれたんです」

 梅田が付加し、安藤はおおよそを理解したようだ。彼は苦笑し、

「皆失礼だなあ。僕はこう見えて繊細なんだよ。傷つくなあ」

 と、おどけたように言った。四人はさらに笑った。

「でも、先生は美術の先生なのに、どうしてそんなに鍛えたんですか?」

 と杜が言った。

「僕が好きで鍛えたわけじゃない。父親に無理やり鍛えさせられたんだ。僕の父は昔プロレスラーだったんだ。まあ無名だったようだけど、体を壊して不本意ながら引退したんだ。だからやっとできた息子の僕に、夢を託したかったようなんだ。一方の僕は小柄な上に病弱でね。姉たちの影響で女の子の遊びばかりしてたんだ。だから、父に期待されるのが本当につらかったよ」
「それからどうなったんですか?」

 安藤の話に引き込まれた四人を代表し、梅田が尋ねた。

「僕は柔道の道場に入門させられ、家でも父にずいぶんとしごかれたんだ。怖い父親で逆らえなかったから、ひたすら練習に励むしかなかったんだ。だから柔道もめきめき上達し、大会で優勝したりするようになったもんだから、さらに止められない状況になってしまってね・・・・・・」
「じゃあ、お父さんに反抗しなかったんですか?」

 美奈子が話をさえぎった。安藤は昔を懐かしむような表情となり、

「したよ。一度だけね。父も周りの人たちも皆、僕は体育大学に進むものと思ってたんだ。でも、やはり僕も自分らしい人生を送りたい。しかしそうしたら、みんなの期待を裏切ってしまう。そう考えて、いつも葛藤してたよ。そんな気持ちを母だけが気付いていて、僕の背中を押してくれたんだ」

 四人の目に映る安藤の姿に、もう猛々しさはなかった。繊細で気が弱い男性と彼らは向かい合っていた。

「お父さん怒ったでしょうね」

 咲羅がポツリと言った。

「そりゃあもう、すごかったよ。女々しい息子を持って恥だのなんだの。でも僕はひるまなかった。あんなに自己主張したのは生まれて初めてだったから、父がとうとう折れてね。そして美大へ進学し、今に至ってるわけさ」
「お父さんとは仲直りできたんですか?」

 梅田が尋ねた。

「ああもちろん。今はよい関係だよ」

 安藤は曇りのない笑顔を浮かべた。

「でも先生、柔道をむちゃくちゃやったのは無駄じゃないぜ。先生はどんな相手とけんかしたって負ける気
しねえもん」

 杜は意気揚々と身を乗り出したが、すぐに美奈子にたしなめられた。

「先生は、あんたと違ってけんかなんかしないわよ!」
「それじゃあ宝の待ち腐れじゃないか」
「宝の持ち腐れでしょ!バカなんだから、もう少し勉強しなさいよ」

 杜はしゅんとなった。彼らのやり取りは、どこかほほえましい。咲羅と梅田と安藤は、声を合わせて笑った。

 美術室を後にするころには、生徒四人と安藤は、すっかり打ち解けていた。
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