マドンナブルー
四人は校門を出た。咲羅と美奈子の後ろに、梅田と自転車を押す杜の姿がある。杜以外の三人は、バス通学である。バス停まで、緩やかな下り坂を五百メートルほど歩いていかなければならない。
「なあ、今からカラオケとか行かねえ?」
杜が言った。
「ごめん。私今からバイトなんだ」
と咲羅が返した。
「私もちょっと・・・・・」
美奈子は伏し目がちに言った。及川と会うのだと、咲羅は察した。
「俺は今から予備校」
梅田がそっけなく返すと、杜は彼に絡み始めた。
「お前、なにが予備校だよ。付き合い悪いな。このガリベン!」
「うるさいな。俺は目標があるんだよ」
梅田は笑ってやり過ごした。彼の言う予備校とは美大専門の予備校のことである。彼は、東京藝術大学を目指していた。
「何だよ、暇人は俺だけかよ!」
杜は唇を尖らせ、つまらなさそうに言った。
彼らの眼下に、緩やかな勾配を描く一本道が、はるか下方へと続く。その道の終わりを示す地点から、帯状に野原が広がる。その野原の向こうに、これまた帯状に太平洋が広がる。海面は、春の空気でほこりをかぶったように白っぽくかすんでいる。穏やかな風景である。一方の野原は、冬の寒さで枯れた草と草の間から新たな雑草が生え始め、黄土色の広がりの中に、鮮やかな緑色が点在する。
この二つの帯状の広がりは、咲羅の胸に刺さっていまだ抜けない、太いトゲの痛みをもたらす。三年前まで、黄土色の広がりは一面、人々の息づく街だった。咲羅は、自分に迫るものを払いのけるように目をつぶった。まぶたの裏の暗がりに、陰鬱な鉛色の情景が、みるみると広がりだした。
****
三年前の三月。その日は朝から鉛色の雲が上空を覆い、気味の悪い日だった。仙台では決して珍しいことではないが、春の雪が降り出しそうな、そんな寒い日だった。
中学二年だった咲羅は、学校からの帰宅途中、震度六の地震に遭遇した。烈震の後の彼女は、二キロほど離れた自宅のアパートへ、迷うことなく向かった。パトカーや消防車のスピーカーから、住民に高台への避難を訴えかける放送が街中に響いた。・・・・・・にもかかわらず、海岸からわずか三百メートルの自宅へと、咲羅は向かって行った。初体験の激しい揺れではあったが、倒壊している家屋は見当たらない。それに加え、海岸沿い一帯を、五メートルはあるであろう高い堤防が、ぐるりと海を取り囲んでいるのだ。それらの要因が、彼女の津波への警戒心を鈍らせた。そのときは、まさか堤防の高さをはるかにこえた大津波が街を襲うとは、予想できなかった。
自宅から五百メートル付近に高台がある。そこに大勢の人々が避難していた。咲羅がその高台を視界に捉えたとき、避難している人たちの様子がおかしかった。茫然自失な表情で、皆海の方角を見つめている。そのうちの何人かが、咲羅に向かってあわただしく手招きしていた。彼らの尋常でない様子に、咲羅はしだいに恐怖を覚えた。そして背後から、濁流の迫る音が聞こえ始めた。
****
<あれからもう、三年が経つのよ!>
咲羅は心の中で強く言った。もう、あの日のことは忘れたい。・・・・・・そんな願いを込めていた。
気付くとバス停に着いていた。数人の生徒が列をなしてバスを待っている。杜はさっと自転車にまたがると、「じゃあな」と言って走り去った。その後すぐにバスが到着した。ちょうど一番後ろの広い座席が空いていた。咲羅を真ん中にして、三人は腰をおろした。
バスが動き出した。バスの揺れにあわせて、三人は同じ方向に揺れる。なんとなく話題に詰まった。この三人だけで会話をしたことがほとんどないのに気付いた。いつもにぎやかさを誘い出す杜の姿がない今、閑散とした空気が漂う。咲羅は、差しさわりのない話題をしぼり出した。
「美奈子は、県展の題材もう決めた?」
差しさわりがないと判断したのだが、美奈子の顔はみるみると気色ばんだ。
「ど、どうしたの?」
「杜のやつ!私に絵のモデルになれって言ってきたのよ!しかもヌードになってくれって」
咲羅と梅田はあんぐりとした。美奈子は興奮気味に言葉を続ける。
「あいつに裸を見せることより、あいつに描かれるのが嫌!ピカソの絵の女みたいにされちゃうわよ!」
咲羅と梅田は笑い出した。
「何がおかしいのよ!」
と美奈子が言った。咲羅はかねてより、美奈子と杜が付き合ったらいいのにと思っていた。二人のやり取りは、どこかほほえましいのだ。
バスは、まず美奈子の降りる停留所に到着した。
「咲羅バイトがんばってね。梅田君また明日ね」
美奈子は手を振り、五,六人の乗客と共にバスを降りた。・・・・・・車内が急にがらんとした。咲羅たち以外に、三人の乗客が点々と座っている。咲羅と梅田は、広い座席に体が触れ合わないやっとの距離を保ち、座っていた。恋人同士でもない二人の距離は、不自然に近すぎた。気まずい空気だった。咲羅は、さりげなくにじって彼との距離を取ろうかと悩んでいると、梅田は明るい声でしゃべり出し、気まずさを破った。
「杜ってほんとアホだよな。ヌード描かせてくれなんて回りくどい告白して」
「それって告白なの?美奈子は気付いてないと思うけど」
横を向くと、どきりとするほど梅田の横顔が近くにあった。しかし、先ほどの気まずさはなかった。
「たしかにね。でもあいつなりに考えたんじゃないかな。かなりずれてるけど。杜は高木にぞっこんだから」
「そうなんだ。なんか杜がかわいそう。美奈子、夢中になってる彼がいるから」
「へえ、知らなかった。高木の彼氏ってどんなやつ?」
「私も会ったことがないからよく知らないの。一ヶ月くらい前から大学生と付き合ってる」
「ふーん」と、尋ねておいて、さほど関心なさそうに梅田が言った。
「吉岡も彼氏いるの?」
「私はそんな人いないよ」
「でも好きなやつくらいいるだろ?」
突然質問され、ドキッとした。ふっと、今日赴任してきた美術教師の顔が浮かんだ。咲羅は大げさに手を振り、
「私はいないよ。部活とバイトで忙しいし。そういう梅田君は彼女いるんでしょ?」
「俺は予備校があるし、受験のことで頭がいっぱいなんだ。恋愛なんかしてる余裕ないよ」
「ええ!私梅田君を好きだっていう女のこ、五人は知ってるよ」
梅田は照れ臭そうな表情となるが、すぐに普段の涼やかな顔に戻った。彼のファンが多いのは事実である。すらりとした長身で、ハンサムなのだ。成績もよく、穏やかで優しい。そのうえ彼の父親は大学教授で、母親はクリニックを開業している精神科医ときた。自宅はかなりの豪邸らしい。
間もなく、咲羅の降りる停留所に着いた。彼女は梅田と別れ、バスを降りた。
「なあ、今からカラオケとか行かねえ?」
杜が言った。
「ごめん。私今からバイトなんだ」
と咲羅が返した。
「私もちょっと・・・・・」
美奈子は伏し目がちに言った。及川と会うのだと、咲羅は察した。
「俺は今から予備校」
梅田がそっけなく返すと、杜は彼に絡み始めた。
「お前、なにが予備校だよ。付き合い悪いな。このガリベン!」
「うるさいな。俺は目標があるんだよ」
梅田は笑ってやり過ごした。彼の言う予備校とは美大専門の予備校のことである。彼は、東京藝術大学を目指していた。
「何だよ、暇人は俺だけかよ!」
杜は唇を尖らせ、つまらなさそうに言った。
彼らの眼下に、緩やかな勾配を描く一本道が、はるか下方へと続く。その道の終わりを示す地点から、帯状に野原が広がる。その野原の向こうに、これまた帯状に太平洋が広がる。海面は、春の空気でほこりをかぶったように白っぽくかすんでいる。穏やかな風景である。一方の野原は、冬の寒さで枯れた草と草の間から新たな雑草が生え始め、黄土色の広がりの中に、鮮やかな緑色が点在する。
この二つの帯状の広がりは、咲羅の胸に刺さっていまだ抜けない、太いトゲの痛みをもたらす。三年前まで、黄土色の広がりは一面、人々の息づく街だった。咲羅は、自分に迫るものを払いのけるように目をつぶった。まぶたの裏の暗がりに、陰鬱な鉛色の情景が、みるみると広がりだした。
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三年前の三月。その日は朝から鉛色の雲が上空を覆い、気味の悪い日だった。仙台では決して珍しいことではないが、春の雪が降り出しそうな、そんな寒い日だった。
中学二年だった咲羅は、学校からの帰宅途中、震度六の地震に遭遇した。烈震の後の彼女は、二キロほど離れた自宅のアパートへ、迷うことなく向かった。パトカーや消防車のスピーカーから、住民に高台への避難を訴えかける放送が街中に響いた。・・・・・・にもかかわらず、海岸からわずか三百メートルの自宅へと、咲羅は向かって行った。初体験の激しい揺れではあったが、倒壊している家屋は見当たらない。それに加え、海岸沿い一帯を、五メートルはあるであろう高い堤防が、ぐるりと海を取り囲んでいるのだ。それらの要因が、彼女の津波への警戒心を鈍らせた。そのときは、まさか堤防の高さをはるかにこえた大津波が街を襲うとは、予想できなかった。
自宅から五百メートル付近に高台がある。そこに大勢の人々が避難していた。咲羅がその高台を視界に捉えたとき、避難している人たちの様子がおかしかった。茫然自失な表情で、皆海の方角を見つめている。そのうちの何人かが、咲羅に向かってあわただしく手招きしていた。彼らの尋常でない様子に、咲羅はしだいに恐怖を覚えた。そして背後から、濁流の迫る音が聞こえ始めた。
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<あれからもう、三年が経つのよ!>
咲羅は心の中で強く言った。もう、あの日のことは忘れたい。・・・・・・そんな願いを込めていた。
気付くとバス停に着いていた。数人の生徒が列をなしてバスを待っている。杜はさっと自転車にまたがると、「じゃあな」と言って走り去った。その後すぐにバスが到着した。ちょうど一番後ろの広い座席が空いていた。咲羅を真ん中にして、三人は腰をおろした。
バスが動き出した。バスの揺れにあわせて、三人は同じ方向に揺れる。なんとなく話題に詰まった。この三人だけで会話をしたことがほとんどないのに気付いた。いつもにぎやかさを誘い出す杜の姿がない今、閑散とした空気が漂う。咲羅は、差しさわりのない話題をしぼり出した。
「美奈子は、県展の題材もう決めた?」
差しさわりがないと判断したのだが、美奈子の顔はみるみると気色ばんだ。
「ど、どうしたの?」
「杜のやつ!私に絵のモデルになれって言ってきたのよ!しかもヌードになってくれって」
咲羅と梅田はあんぐりとした。美奈子は興奮気味に言葉を続ける。
「あいつに裸を見せることより、あいつに描かれるのが嫌!ピカソの絵の女みたいにされちゃうわよ!」
咲羅と梅田は笑い出した。
「何がおかしいのよ!」
と美奈子が言った。咲羅はかねてより、美奈子と杜が付き合ったらいいのにと思っていた。二人のやり取りは、どこかほほえましいのだ。
バスは、まず美奈子の降りる停留所に到着した。
「咲羅バイトがんばってね。梅田君また明日ね」
美奈子は手を振り、五,六人の乗客と共にバスを降りた。・・・・・・車内が急にがらんとした。咲羅たち以外に、三人の乗客が点々と座っている。咲羅と梅田は、広い座席に体が触れ合わないやっとの距離を保ち、座っていた。恋人同士でもない二人の距離は、不自然に近すぎた。気まずい空気だった。咲羅は、さりげなくにじって彼との距離を取ろうかと悩んでいると、梅田は明るい声でしゃべり出し、気まずさを破った。
「杜ってほんとアホだよな。ヌード描かせてくれなんて回りくどい告白して」
「それって告白なの?美奈子は気付いてないと思うけど」
横を向くと、どきりとするほど梅田の横顔が近くにあった。しかし、先ほどの気まずさはなかった。
「たしかにね。でもあいつなりに考えたんじゃないかな。かなりずれてるけど。杜は高木にぞっこんだから」
「そうなんだ。なんか杜がかわいそう。美奈子、夢中になってる彼がいるから」
「へえ、知らなかった。高木の彼氏ってどんなやつ?」
「私も会ったことがないからよく知らないの。一ヶ月くらい前から大学生と付き合ってる」
「ふーん」と、尋ねておいて、さほど関心なさそうに梅田が言った。
「吉岡も彼氏いるの?」
「私はそんな人いないよ」
「でも好きなやつくらいいるだろ?」
突然質問され、ドキッとした。ふっと、今日赴任してきた美術教師の顔が浮かんだ。咲羅は大げさに手を振り、
「私はいないよ。部活とバイトで忙しいし。そういう梅田君は彼女いるんでしょ?」
「俺は予備校があるし、受験のことで頭がいっぱいなんだ。恋愛なんかしてる余裕ないよ」
「ええ!私梅田君を好きだっていう女のこ、五人は知ってるよ」
梅田は照れ臭そうな表情となるが、すぐに普段の涼やかな顔に戻った。彼のファンが多いのは事実である。すらりとした長身で、ハンサムなのだ。成績もよく、穏やかで優しい。そのうえ彼の父親は大学教授で、母親はクリニックを開業している精神科医ときた。自宅はかなりの豪邸らしい。
間もなく、咲羅の降りる停留所に着いた。彼女は梅田と別れ、バスを降りた。