マドンナブルー
バイト先は、繁華街の通りから一本外れた路地にある、小さなレストランだ。咲羅の高校は、長期休暇以外のアルバイトは全面禁止である。そのため、人目につきにくい路地に構えるこの店を、働き場所に選んだのだ。
午後九時過ぎにバイトを終えた。咲羅は多くの飲食店が軒を連ねる通りを、行き交う酔っ払いの群を縫って足早に家路をたどった。彼女の家は、バイト先から徒歩二十分ほどの場所に建つ団地だ。震災の被災者のために建てられた団地で、通称「復興団地」と呼ばれている。三年前の津波で、海岸から三百メートルに位置した咲羅の自宅のアパートは、跡形も残らず押し流された。その後二年余り、仮設住宅での生活を余儀なくされたのだ。復興団地への入居を巡る、市の抽選に当選したことは、本当に幸運だった。真新しい壁を眺めていると、壁が極端に薄く、冬になると壁一面に結露が広がる、かび臭い仮設住宅での生活が、はるか昔に思えるのだ。
咲羅が帰宅すると、母の晴江がソファに横になり、テレビを見ていた。彼女は三十六歳。咲羅は、晴江が二十歳のときに産んだ子供である。咲羅の父は、晴江が高校三年生のときの担任教師だった。しかし咲羅が二歳のとき、父は交通事故で帰らぬ人となった。
晴江は、苦労の絶えない人生を送ってきた割にしわが少なく、童顔でかわいらしい。母娘二人並ぶと、まるで姉妹のようだ。
咲羅は帰宅した足で、習慣のようにまず浴室へと向かった。疲れを洗い流して部屋へ行くと、母が先ほどと同じ体勢でソファに横になっていた。
「お腹すいてるなら、なべにカレー入ってるよ」
晴江が言った。
「ううん。お店で食べてきたから大丈夫」
咲羅は、冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出しコップに注いだ。キャミソール姿の咲羅の体に、母の視線が貼り付いる。彼女は上半身をもたげた。
「咲羅、最近やせたんじゃない?ちょっとがんばりすぎてない?あんたのお小遣いくらい私があげるのに」
「ママ、女のこはいくらやせても、やせすぎってことはないのよ。それにバイトは社会勉強になるし、楽しいの」
「それならいいけど・・・・・・」
咲羅は麦茶の入ったコップを持って、晴江の隣に腰掛けた。
「今日学校どうだった?」
晴江にそう尋ねられ、咲羅の脳裏に安藤が浮かび、ときめいた気持ちとなった。それを隠して咲羅はそっけなく話した。
「別に普通だよ。美術部の新しい先生が来たくらい」
「ふーん。また前の先生みたいな美人?」
「ううん。男の先生。なんか見た目がプロレスラーみたいな大きな先生だった」
咲羅はテレビから流れる報道番組の映像に目を置き続けた。テレビからは、国際労働組合連合がどうのと、ちんぷんかんぷんなニュースが放送されている。それを熱心に見つめる咲羅の横顔に、ニヤついた晴江の視線が貼り付いていた。
「さ・て・は、相当素敵な先生だったのね。どんな人?独身?かっこいい?」
やっぱりばれちゃった?というように、咲羅は笑顔で晴江に顔を向けた。安藤に抱いた印象が、咲羅ののどを上がり始めた。強そうな外見に反して、とても繊細な内面だということ。物腰柔らかく紳士的だということ。父親との確執の末、夢をつかんだということ。・・・・・・などなど、咲羅は目をきらめかせて話した。
終始、笑顔で娘の話を聞いていた晴江が口を開き、話の主旨をまとめた。
「つ・ま・り、惚れてしまったわけね」
「違うよ。そんなんじゃないってば。ずっと年上だし。まあ独身みたいだけど。優しくて頼りになりそうで、あんな人がパパだったらいいなと思っただけよ」
「歳が離れてたって独身ならいいじゃない。咲羅って、男のこの話全然しないから心配してたのよ。先生を好きになるなんて私みたいね。アタックしちゃいなよ。同級生の盛りのついたオスどもと付き合うより、ママはずっと安心だな」
咲羅は絶句した。晴江は性に関する話題をあけすけに言う傾向がある。そのたびに、咲羅は太ももあたりにむずがゆさが走るのだ。
「そういうママはどうなの?歳の割りにかわいいんだし、彼氏作ったらいいじゃん」
「歳の割りにはは余計よ。私は今でもパパが好き。はい!私の話は終わり!」
咲羅はさりげなく話題を自分からそらそうとしたが、失敗に終わった。その後も晴江は、娘が初めて心ときめかす異性についての話題に、執拗に絡みついた。
****
翌朝、咲羅は一人美術室にいた。夕方からバイトに入る彼女にとって、教師たちすらほとんど出勤していない時間帯に絵を描くことが、一年のときからの習慣となっていた。
柔らかな朝日が、室内を優しく照らす。聞こえてくるのは鳥のさえずりと、校庭の片隅からかすかに届く、金属バッドとボールのぶつかる乾いた音と、ランニングをする陸上部員たちの息の合ったかけ声のみだ。
咲羅は雑誌を切り抜いた写真の人物をもとに、スケッチブックにデッサンを描き出していた。一心不乱に鉛筆を動かしていると、ドアの開閉音が響いた。この時間帯の美術室に訪問者が来るのは初めてである。そのため、咲羅は驚いてビクッとした。
ドアへ目をやると、安藤が立っていた。彼も咲羅同様、驚いた顔をしている。
「ええっと、吉岡さん、吉岡さんって言ったよね」
名前を覚えていてくれたことが嬉しかった。
「はい。吉岡です。おはようございます。先生早いんですね」
「おはよう。吉岡さんも早いんだね。こんな時間から絵を描いてるなんて、熱心なんだな」
安藤に笑顔でほめられ、咲羅はときめいた。もっと彼と話したいと思ったのだが、彼は準備室へと消えていってしまった。準備室とは、美術室に隣接する狭い部屋のことである。美術室内部からも行き来できる構造をとっており、美術関連のグッズや部員の私物などが置いてある。いわば部室のような部屋だ。
準備室のドアは開け放たれていた。咲羅の位置から内部が見て取れるが、安藤の姿は確認できない。彼女の指は、熱心に鉛筆を動かし続ける。一方で彼女の耳は熱心に、しかし無意識に、安藤の動向を探っていた。
しばらくして、コーヒーの芳香が立ち込め出した。安藤は準備室から顔を覗かせ、
「コーヒー飲む?」
「はい。いただきます」
「砂糖とミルクは?」
「ではミルクだけお願いします」
すぐに安藤は、二つのマグカップを持って咲羅のそばへとやってきた。彼女に一方を手渡すと、彼は自分のコーヒーに口をつけながら咲羅の三メートルほど後ろにたたずみ、彼女のデッサンを観察した。
咲羅は、安藤の微細な気配を背に強く感じた。そして、昨夜ニヤついた晴江が言った、「惚れてしまったわけね」という言葉が頭の中で響いた。
しばらく沈黙が続いた後、
「吉岡さんは、写真を見て描くことが多いの?」
「あ、はい」
咲羅は緊張して言った。後ろを向いて安藤を見ると、彼は鋭くデッサンを見つめていた。
「写真をもとに描く人は多いけど、けっこう難しいんだ。空間を捉えづらいし、のっぺりとしたものになりがちで、平面的になってしまう。たとえばこの頬のライン・・・・・・」
安藤の体は、いつのまにか咲羅のすぐ背後にあった。彼は写真の人物の頬を指差し、
「生身の人間だったら、もっと陰影が濃くなるはず。フラッシュの影響もあって、明暗が分かりづらくなってしまうんだ。少し手を加えてもいいかな・・・・・・?」
安藤は咲羅から鉛筆を受け取ると、彼女のすぐ背後に立って、イーゼルと向かい合った。彼はごつい手を動かし、繊細かつ滑らかなタッチでデッサンに線を加えていく。咲羅は、巧みに動く安藤の手を、ぼんやりと見つめていた。暖かな父親への憧憬が心に流れ込む一方、男臭さを感じさせるものが鼻腔に入り込み、胸が高鳴った。
「こんな具合に、写真をもとにするときは、実際の陰影よりも少し濃くすると立体感が出てくるんだ」
安藤の声で咲羅は我に返り、ビクッとした。そして初めてデッサンに視線を向けた。
「わあ!すごい!」
おもわず歓声を上げた。手を加える前のものと比べ、格段に紙上の人物の存在感が増していた。
「先生は、本当に美術の先生なんですね」
「うん?」
安藤はきょとんとした目で咲羅を見た。彼に正視され、ふたたび咲羅はどぎまぎする。
「あの、安藤先生は体育の先生というイメージが抜けなくて・・・・・・」
「ハハハ。そういうことか」
安藤が笑ったので、咲羅もつられて笑った。なんとなく緊張が緩んだ。
その後、ふたたび咲羅はデッサンに集中した。その間安藤は窓辺にたたずみ、外に広がる太平洋を眺めていた。しばらくそうした後、彼が話しかけてきた。
「吉岡さんは、進路決まってるの?」
「先生、吉岡でいいです。本当は美大に行きたいんですけど、たぶん無理なので、せめて美術館とか画廊とか、美術に携わる仕事につきたいと思ってます」
咲羅は鉛筆を置き、ぬるくなったコーヒーをすすった。咲羅の家庭の内情を知らない安藤は、無邪気な口調で、
「吉岡はいい線行ってると思うよ。充分美大を狙えるよ」
咲羅が言い出したことなのだが、急に呼び捨てにされ、いちいち胸が騒いだ。
「違うんです。私が小さいときに父が亡くなったので、うちは母子家庭なんです。だから金銭的にちょっと無理かなって・・・・・・」
安藤はすまない気持ちを表情にあらわにし、
「それはお気の毒だね。でも県展で入賞したり、内申書がよければ奨学金をもらうことだってできるんだよ。吉岡はまじめそうだから、内申書は問題ないだろ?」
「はい。たぶん・・・・・・」
あいまいに返す咲羅の脳裏に、毎夜繁華街の片隅で、校則違反を犯す自分の姿が浮かんだ。食べ物がのどにつかえたような彼女の心境を知らない安藤は、屈託のない笑顔を浮かべ、
「奨学金のことを視野に入れて、お母さんと話し合ってごらん。そんなに熱心なんだし、夢をかなえてほしいな」
大学進学なんて、咲羅は考えたこともなかった。昨日、逆境の末夢を勝ち取ったという安藤の話を聞いたことも心が動くきっかけとなり、暗いトンネルの先に広がる大地のような光り輝くものとして、咲羅の中で「奨学金」という言葉が捉えられた。
午後九時過ぎにバイトを終えた。咲羅は多くの飲食店が軒を連ねる通りを、行き交う酔っ払いの群を縫って足早に家路をたどった。彼女の家は、バイト先から徒歩二十分ほどの場所に建つ団地だ。震災の被災者のために建てられた団地で、通称「復興団地」と呼ばれている。三年前の津波で、海岸から三百メートルに位置した咲羅の自宅のアパートは、跡形も残らず押し流された。その後二年余り、仮設住宅での生活を余儀なくされたのだ。復興団地への入居を巡る、市の抽選に当選したことは、本当に幸運だった。真新しい壁を眺めていると、壁が極端に薄く、冬になると壁一面に結露が広がる、かび臭い仮設住宅での生活が、はるか昔に思えるのだ。
咲羅が帰宅すると、母の晴江がソファに横になり、テレビを見ていた。彼女は三十六歳。咲羅は、晴江が二十歳のときに産んだ子供である。咲羅の父は、晴江が高校三年生のときの担任教師だった。しかし咲羅が二歳のとき、父は交通事故で帰らぬ人となった。
晴江は、苦労の絶えない人生を送ってきた割にしわが少なく、童顔でかわいらしい。母娘二人並ぶと、まるで姉妹のようだ。
咲羅は帰宅した足で、習慣のようにまず浴室へと向かった。疲れを洗い流して部屋へ行くと、母が先ほどと同じ体勢でソファに横になっていた。
「お腹すいてるなら、なべにカレー入ってるよ」
晴江が言った。
「ううん。お店で食べてきたから大丈夫」
咲羅は、冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出しコップに注いだ。キャミソール姿の咲羅の体に、母の視線が貼り付いる。彼女は上半身をもたげた。
「咲羅、最近やせたんじゃない?ちょっとがんばりすぎてない?あんたのお小遣いくらい私があげるのに」
「ママ、女のこはいくらやせても、やせすぎってことはないのよ。それにバイトは社会勉強になるし、楽しいの」
「それならいいけど・・・・・・」
咲羅は麦茶の入ったコップを持って、晴江の隣に腰掛けた。
「今日学校どうだった?」
晴江にそう尋ねられ、咲羅の脳裏に安藤が浮かび、ときめいた気持ちとなった。それを隠して咲羅はそっけなく話した。
「別に普通だよ。美術部の新しい先生が来たくらい」
「ふーん。また前の先生みたいな美人?」
「ううん。男の先生。なんか見た目がプロレスラーみたいな大きな先生だった」
咲羅はテレビから流れる報道番組の映像に目を置き続けた。テレビからは、国際労働組合連合がどうのと、ちんぷんかんぷんなニュースが放送されている。それを熱心に見つめる咲羅の横顔に、ニヤついた晴江の視線が貼り付いていた。
「さ・て・は、相当素敵な先生だったのね。どんな人?独身?かっこいい?」
やっぱりばれちゃった?というように、咲羅は笑顔で晴江に顔を向けた。安藤に抱いた印象が、咲羅ののどを上がり始めた。強そうな外見に反して、とても繊細な内面だということ。物腰柔らかく紳士的だということ。父親との確執の末、夢をつかんだということ。・・・・・・などなど、咲羅は目をきらめかせて話した。
終始、笑顔で娘の話を聞いていた晴江が口を開き、話の主旨をまとめた。
「つ・ま・り、惚れてしまったわけね」
「違うよ。そんなんじゃないってば。ずっと年上だし。まあ独身みたいだけど。優しくて頼りになりそうで、あんな人がパパだったらいいなと思っただけよ」
「歳が離れてたって独身ならいいじゃない。咲羅って、男のこの話全然しないから心配してたのよ。先生を好きになるなんて私みたいね。アタックしちゃいなよ。同級生の盛りのついたオスどもと付き合うより、ママはずっと安心だな」
咲羅は絶句した。晴江は性に関する話題をあけすけに言う傾向がある。そのたびに、咲羅は太ももあたりにむずがゆさが走るのだ。
「そういうママはどうなの?歳の割りにかわいいんだし、彼氏作ったらいいじゃん」
「歳の割りにはは余計よ。私は今でもパパが好き。はい!私の話は終わり!」
咲羅はさりげなく話題を自分からそらそうとしたが、失敗に終わった。その後も晴江は、娘が初めて心ときめかす異性についての話題に、執拗に絡みついた。
****
翌朝、咲羅は一人美術室にいた。夕方からバイトに入る彼女にとって、教師たちすらほとんど出勤していない時間帯に絵を描くことが、一年のときからの習慣となっていた。
柔らかな朝日が、室内を優しく照らす。聞こえてくるのは鳥のさえずりと、校庭の片隅からかすかに届く、金属バッドとボールのぶつかる乾いた音と、ランニングをする陸上部員たちの息の合ったかけ声のみだ。
咲羅は雑誌を切り抜いた写真の人物をもとに、スケッチブックにデッサンを描き出していた。一心不乱に鉛筆を動かしていると、ドアの開閉音が響いた。この時間帯の美術室に訪問者が来るのは初めてである。そのため、咲羅は驚いてビクッとした。
ドアへ目をやると、安藤が立っていた。彼も咲羅同様、驚いた顔をしている。
「ええっと、吉岡さん、吉岡さんって言ったよね」
名前を覚えていてくれたことが嬉しかった。
「はい。吉岡です。おはようございます。先生早いんですね」
「おはよう。吉岡さんも早いんだね。こんな時間から絵を描いてるなんて、熱心なんだな」
安藤に笑顔でほめられ、咲羅はときめいた。もっと彼と話したいと思ったのだが、彼は準備室へと消えていってしまった。準備室とは、美術室に隣接する狭い部屋のことである。美術室内部からも行き来できる構造をとっており、美術関連のグッズや部員の私物などが置いてある。いわば部室のような部屋だ。
準備室のドアは開け放たれていた。咲羅の位置から内部が見て取れるが、安藤の姿は確認できない。彼女の指は、熱心に鉛筆を動かし続ける。一方で彼女の耳は熱心に、しかし無意識に、安藤の動向を探っていた。
しばらくして、コーヒーの芳香が立ち込め出した。安藤は準備室から顔を覗かせ、
「コーヒー飲む?」
「はい。いただきます」
「砂糖とミルクは?」
「ではミルクだけお願いします」
すぐに安藤は、二つのマグカップを持って咲羅のそばへとやってきた。彼女に一方を手渡すと、彼は自分のコーヒーに口をつけながら咲羅の三メートルほど後ろにたたずみ、彼女のデッサンを観察した。
咲羅は、安藤の微細な気配を背に強く感じた。そして、昨夜ニヤついた晴江が言った、「惚れてしまったわけね」という言葉が頭の中で響いた。
しばらく沈黙が続いた後、
「吉岡さんは、写真を見て描くことが多いの?」
「あ、はい」
咲羅は緊張して言った。後ろを向いて安藤を見ると、彼は鋭くデッサンを見つめていた。
「写真をもとに描く人は多いけど、けっこう難しいんだ。空間を捉えづらいし、のっぺりとしたものになりがちで、平面的になってしまう。たとえばこの頬のライン・・・・・・」
安藤の体は、いつのまにか咲羅のすぐ背後にあった。彼は写真の人物の頬を指差し、
「生身の人間だったら、もっと陰影が濃くなるはず。フラッシュの影響もあって、明暗が分かりづらくなってしまうんだ。少し手を加えてもいいかな・・・・・・?」
安藤は咲羅から鉛筆を受け取ると、彼女のすぐ背後に立って、イーゼルと向かい合った。彼はごつい手を動かし、繊細かつ滑らかなタッチでデッサンに線を加えていく。咲羅は、巧みに動く安藤の手を、ぼんやりと見つめていた。暖かな父親への憧憬が心に流れ込む一方、男臭さを感じさせるものが鼻腔に入り込み、胸が高鳴った。
「こんな具合に、写真をもとにするときは、実際の陰影よりも少し濃くすると立体感が出てくるんだ」
安藤の声で咲羅は我に返り、ビクッとした。そして初めてデッサンに視線を向けた。
「わあ!すごい!」
おもわず歓声を上げた。手を加える前のものと比べ、格段に紙上の人物の存在感が増していた。
「先生は、本当に美術の先生なんですね」
「うん?」
安藤はきょとんとした目で咲羅を見た。彼に正視され、ふたたび咲羅はどぎまぎする。
「あの、安藤先生は体育の先生というイメージが抜けなくて・・・・・・」
「ハハハ。そういうことか」
安藤が笑ったので、咲羅もつられて笑った。なんとなく緊張が緩んだ。
その後、ふたたび咲羅はデッサンに集中した。その間安藤は窓辺にたたずみ、外に広がる太平洋を眺めていた。しばらくそうした後、彼が話しかけてきた。
「吉岡さんは、進路決まってるの?」
「先生、吉岡でいいです。本当は美大に行きたいんですけど、たぶん無理なので、せめて美術館とか画廊とか、美術に携わる仕事につきたいと思ってます」
咲羅は鉛筆を置き、ぬるくなったコーヒーをすすった。咲羅の家庭の内情を知らない安藤は、無邪気な口調で、
「吉岡はいい線行ってると思うよ。充分美大を狙えるよ」
咲羅が言い出したことなのだが、急に呼び捨てにされ、いちいち胸が騒いだ。
「違うんです。私が小さいときに父が亡くなったので、うちは母子家庭なんです。だから金銭的にちょっと無理かなって・・・・・・」
安藤はすまない気持ちを表情にあらわにし、
「それはお気の毒だね。でも県展で入賞したり、内申書がよければ奨学金をもらうことだってできるんだよ。吉岡はまじめそうだから、内申書は問題ないだろ?」
「はい。たぶん・・・・・・」
あいまいに返す咲羅の脳裏に、毎夜繁華街の片隅で、校則違反を犯す自分の姿が浮かんだ。食べ物がのどにつかえたような彼女の心境を知らない安藤は、屈託のない笑顔を浮かべ、
「奨学金のことを視野に入れて、お母さんと話し合ってごらん。そんなに熱心なんだし、夢をかなえてほしいな」
大学進学なんて、咲羅は考えたこともなかった。昨日、逆境の末夢を勝ち取ったという安藤の話を聞いたことも心が動くきっかけとなり、暗いトンネルの先に広がる大地のような光り輝くものとして、咲羅の中で「奨学金」という言葉が捉えられた。