マドンナブルー
 その日のバイトの勤務中、来客を知らせるベルの音が店舗の入り口から響いた。食器を拭いていた咲羅が入り口へ向かうと、大学生風の男を連れ立った美奈子の姿があった。

「やっほー咲羅。食べに来たよん」

 男の腕に自分の腕を絡ませ、上機嫌な美奈子は、黒いミニのタイトスカートと襟ぐりが大きく開いたカットソーを着ていた。モデルのような長身を、小枝のように頼りないピンヒールが支えている。メイクははなはだしく濃い。連れの男に咲羅の視線が向くと、すかさず美奈子は、

「この人が及川さんよ」

 そう得意げに紹介し、彼に自分の体を寄り添わせた。及川は控えめに「はじめまして」と挨拶した。咲羅も彼と同じ調子で挨拶を交わした。

 まず彼から、物静かでハンサムだという印象を受けた。高価なブランドの衣服を身に着けた彼の装いから判断するに、金持ちの息子なのだろう。目じりに向かい細く上がった切れ長の目が印象的だった。そのシャープな囲いの中の白濁した部分に、咲羅は狡猾な光を見た気がした。

 美奈子たち以外の客は、新聞を読みながらコーヒーを飲む、スーツ姿の男性のみだ。美奈子たちから受け付けた注文の品が出来上がる間、咲羅は厨房で食器を拭きながら、ひそかに彼女たちの様子をうかがっていた。二人は、西側の席に座っている。二つの横顔の背景には窓があり、日没間際の光が、二つの体の間で燃えるように輝いていた。美奈子は長いまつげに縁取られた潤んだ瞳をきらめかせ、及川を見つめている。そんな親友の姿を目撃し、咲羅は及川に抱いた好ましくない印象を払拭させようと勤めた。

 注文の品を運んだとき、美奈子は甘えたような声で、

「咲羅、今週の土曜日何か予定ある?」

 とっさに咲羅は身構えた。

「ええっと、土曜日はバイトなの」
「それなら昼間は空いてるわね。私たちと出かけようよ。及川さんの友達も来るのよ」

 咲羅が警戒したとおりだった。普段の彼女なら、異性を紹介するといった類の誘いに乗ることはない。しかし及川と、彼に陶酔しきったように目を濡らす親友を前にし、拒絶の言葉を飲み込んだ。

「土曜日の十時よ。私たち迎えに行くから忘れないでね」

 そう美奈子は念を押した。

                     ****

 翌朝、咲羅が美術室に行くと、すでに安藤の姿があった。彼はマグカップを片手に持ち、昨日と同じように窓際にたたずんで太平洋を眺めていた。

 彼の大きな背中が視界に飛び込んできたとたん、咲羅の心は華やいだ。・・・・・・が、そんな甘い気持ちはすぐに冷やされた。ドアの開閉音で、咲羅のほうに振り返った安藤の表情は、どこか寂しそうだった。しかしそれは、見まちがいかと思うほど一瞬のことで、彼は咲羅に笑顔を向けた。

「おはよう。今日も早いんだね」

 咲羅は戸惑ったまま、挨拶を返した。

「コーヒー飲む?」
「あ、はい・・・・・・。ありがとうございます」

 安藤は準備室の中へと消えていった。咲羅はバッグをテーブルに置くと、深呼吸をした。そして春風で乱れた髪を、指で手早く整えた。

 安藤はすぐに戻ってきた。

「吉岡はミルクだけだったよな」

 彼は咲羅にマグカップを手渡した。芳香と、あたたかな湯気が立ちのぼる。彼が準備室に消えて、戻ってくるまでの時間がとても早かった。あたかも咲羅が来るのを見越して用意されていたかのようなコーヒーを、一口飲み込んだ。お腹から、あたたかみがじんわりと全身に広がる。

 咲羅は、画材道具を取りに準備室へ足を踏み入れた。安藤は、隅の机でパソコンと向き合いキーボードを打っている。キーボード上でたくみに動く安藤の指を見たとたん、昨日、咲羅のデッサンに手を加える彼の滑らかな指の動きが、鮮明によみがえった。咲羅は、狭い空間に安藤と二人っきりであることに、急に気恥ずかしさを覚えた。あわててその部屋から立ち去ろうとしたとき、棚の一角におさめられた、おびただしい数のスケッチブックが目に留まり、興味を引かれた。

「このスケッチブック、全部先生が描いたんですか?」

 安藤は手を動かしたまま、首を咲羅のほうへ回し、

「そうだよ」
「見てもいいですか?」
「もちろんかまわないよ」

 彼はふたたびパソコンに顔を向けた。咲羅は、適当に探り当てたものをスケッチブックの束から引き抜いた。表紙の右下に小さな文字で、年月日が記されている。他のものも確認すると同様に記されていた。どうやら年代順におさめられているようだ。彼女の興味は、一番古いものに向けられた。

 記された年月日と安藤の年齢を照らし合わせると、彼が高校生のときのもののようだ。咲羅は自分と同年代のころの安藤を想像し、わくわくしながらスケッチブックを開いた。

 圧倒されるほど、どれもすばらしかった。モチーフは、車や飛行機のミニチュア模型に加え、文房具や時計などの日用品が主だった。人物画はもっぱら自画像である。背後の風景から察するに、すべて安藤が高校生のときの自宅で描かれたものなのだろう。咲羅は、意志を抑圧された少年時代を過ごしたという安藤の話を思い出した。そのため、数々の作品は、ひっそりと描かれた陰気で痛々しいものに感じられた。

「先生って坊主だったんですね」

 安藤は仕事の手を休め、気恥ずかしそうに笑って咲羅のほうへ振り向いた。

「あんまり見ないでくれよ。柔道部の決まりだったんだ」
「すごく似合ってます。今も坊主にしたらどうですか?」

 と安藤をからかった。彼は、短く切りそろえられた自分の髪に手をやり、「かんべんしてくれよ」とつぶやいた。その後も、咲羅は何冊もスケッチブックを引き抜き、安藤に感想や質問を投げかけた。女子高生らしい、はじけるような陽気な態度に、和やかな空気が流れた。そのため安藤は、パソコンに向き合いながら、咲羅からの問いかけを心待ちにしている自分に気付いた。・・・・・・しかし、急に咲羅はおとなしくなった。静寂が、準備室に漂った。

「どうした?具合でも悪いのか?」

 心配した安藤が咲羅のほうへ振り返った。咲羅は、茫然とした様子でスケッチブックを見つめていた。彼に気付かれ、ギクッとした。見てはいけないものを見てしまったような、後ろめたい気持ちにおちいったのだ。

「先生、これ・・・・・・」

 遠慮がちに、スケッチブックを安藤に差し出した。彼はそれを受け取ると、ぺらぺらとめくった。そしてぱたんと音を立てて閉じた。

「こんなものが混ざってたのか」

 安藤はばつが悪そうに言った。二人を動揺させたそのスケッチブックには、つい先日である去年の年月日が記されていた。ひどい内容だった。完成した作品はおろか、どれも殴り書きのような絵とは呼べない代物ばかりで、未完成の上からでたらめに、強い筆跡で塗りつぶされたものもあった。それらは、作者の乱れた精神状態を表しているようだった。

 安藤はためらった後、重い口を開いた。

「このことは、誰にも言わないでほしい」

 そう切り出し、ぼちぼちと話し始めた。彼が語った内容は、以下のものである。

 約一年半前、仕事ができないほど困憊した安藤は、一年間の病休を得た。彼はその足でヨーロッパへ向かい、スケッチブックを持って各地を放浪したという。

 彼の説明はそれだけだった。それだけ話すと、ふたたびパソコンに向き合い仕事を始めてしまった。咲羅は、安藤の少なすぎる説明に多くの疑問を抱いたが、それらは触れてはいけないことに感じられ、彼に問い詰める勇気は起きなかった。
< 5 / 59 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop