マドンナブルー
その夜、咲羅は嫌な夢を見た。何十回と見てきた夢だ。しかし長い間、忘れ去られていた夢である。それが今、古傷が痛むように彼女はその夢の中にいた。

 鉛色の世界に身を置いた咲羅は中学二年生である。学校からの帰宅途中、烈震に遭遇した彼女は自宅を目指し、海岸方向へと歩き進んでいた。・・・・・・かすかだが、急に濁流の音が聞こえてきた。それはすぐに、バキバキと、何かを破壊する音を伴ったものへと変わった。咲羅は恐怖に襲われ、迫ってくる津波から逃れようと、高台目指して必死に走った。

 命からがら高台の斜面を駆けあがると、石につまずき転倒した。ぱっと背後を振り返った。すると街は、海に変わっていた。四方から濁流ががれきを持ち寄せ、いたるところに渦を巻いている。斜面をのぼりきれず勢いを失った海水が、地面に貼り付いた咲羅の下肢を濡らしていく。

<助かった!>

 しかし、そう安堵したのはつかの間のことだった。濁流に流されてきた親子が、咲羅のすぐ近くに打ち寄せられたのだ。若い母親が、二歳くらいの女の子をかたく抱きかかえている。斜面に横たえたその親子は、死んだように動かない。咲羅は恐怖でいっぱいだった。腰が抜けて立ち上がれない。やがて、母親の頭が動いた。その顔は、咲羅のほうへ向いた。二人の目が合った。

<助けに行かなくちゃ!>

 咲羅がそう奮起した、次の瞬間、大波が打ち寄せ、親子を飲み込んだ。

・・・・・・夢はそこで終わった・・・・・・。いつもその場面で咲羅は覚醒するのだ。夢から抜け切らない彼女の体は、激しく脈打っている。汗と涙の区別がつかないほどに濡れた顔を、両手で覆った。咲羅は自分の背に、彼女が救えなかった親子の存在がのしかかる気配を、常に感じていた。しかしいくら思い出そうとしても、目が合ったはずの母親の顔が思い出せない。ただ、とても綺麗な人だったということだけが、咲羅の記憶の片隅に刻み込まれていた。

                       ****

 その週の土曜日、咲羅は約束どおり美奈子たちと出かけた。及川の運転する、ピカピカに磨き上げられたスカイラインは、地面に車体を滑らすようにやってきた。

 助手席に美奈子が座り、後部座席に咲羅と、及川の友人の早坂という男が座った。一行は、快晴の中ドライブへと出かけた。いくつかの観光地を巡り、こじゃれたレストランで昼食をとり、今朝、咲羅を拾った場所へと彼らが戻ったのは、午後五時をすぎてのことだった。

「じゃあね。咲羅バイトがんばってね」

 美奈子は助手席の窓から顔を覗かせ、咲羅に手を振った。咲羅は笑顔で手を振り返した。

「咲羅ちゃん、また近いうち遊びに行こうな」

 及川の友人の早坂が、名残惜しそうに言った。咲羅は、ふたたび笑顔で「はい。ぜひ」と答えた。

 車が発進した。美奈子たちの乗ったスカイラインは、地面をはう昆虫のように、あっという間に夕暮れのかなたに消えた。咲羅の顔から笑顔が消え、疲労の色へと変わった。あらためて、疲れたと感じた。

 今日、美奈子と及川は終始イチャイチャしっぱなしだった。とある観光地を散策した際、体を寄せ合いじゃれあう彼らに触発されたのか、咲羅は早坂から、手をつないでよいかと尋ねられた。場の空気をしらけさせる拒絶の言葉が出なかった咲羅は、なくなく関心のない異性と手を握り合った。しかし、決して早坂に好ましくない印象を持ったというわけではない。咲羅は、彼に関心を持とうとする気持ちすら起きなかった。その理由が、安藤にあるということを、咲羅は分かっていた。彼女の心に安藤が居座るようになり、気持ちが彼に傾斜しつつあった。しかしその傾斜は恋ではない。あくまで父親への憧憬から派生したものだ。多くの人間は幼少期、異性の親に恋愛感情と似たものを抱く。咲羅はそれが叶わなかった。そのため今ごろになって、親子ほど歳の離れた安藤に対し、恋心のような感情を抱くのだ。彼女はそう解釈していた。・・・・・・少なくとも、そう思い込みたかった。実は、彼女は恋愛が怖いのだ。そう感じるに至った理由は母の晴江にある。

 晴江は、父が亡くなってからというもの、自分と娘のくいぶちを、補うためだけのような生活を送ってきた。咲羅は、晴江が新たな人生を踏み出し、彼女が幸せになるのを望むのだが、いまだ彼女の心の大部分を占める父の存在が、それを許さないのだそうだ。そんな晴江の生き方に、咲羅は虚しさを感じていた。それは、愛が強いがゆえに起きた悲劇である。そんな母の姿を見てきたため、咲羅は恋愛に積極的になれないでいた。

                         ****

 スカイラインを降りた足で、咲羅はバイト先に向かった。途中、市民広場を通る。そこでは毎週末、何かしらイベントが催される。その日は「アートフェスティバル」という看板が掲げられ、絵画やオブジェなどが展示されていた。ステージ上でのバンド演奏や出店もあり、週末の夕暮れ時を、そこで過ごそうとする多くの客でにぎわっていた。

 咲羅は両側に目を配りながら、雑踏を抜けた。目に留まった作品がいくつかあったが、バイトの時間が迫っていたため足早に立ち去った。

 その日、バイト先のレストランは繁盛した。二人のホール係では手が回らないほど客足が途絶えなかった。

 来客を知らせるベルと共に、男女入り交じった五、六人のグループが来店した。額に汗をにじませた咲羅は、機械的な動作で客をテーブルへと案内した。ふと、客の一人の視線が、自分の顔に貼り付いているのに気付いた。咲羅は、初めて客の顔に焦点を結ばせた。安藤だった。彼は茫然と、無言で咲羅の顔を見つめていた。

 咲羅はあわてて厨房へと駆け込んだ。安藤たちのグループが帰るまでの間、彼女は皿洗いやデザート作りなどの裏方の仕事に徹した。安藤は時折、店内を見回して咲羅を探すそぶりを見せたが、連れの面々と共に静かに店を後にした。

 
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