マドンナブルー
バイトをしている姿を安藤に見られ、咲羅は心穏やかでなかった。彼女の高校は、長期休暇以外のバイトは全面禁止である。毎年何人かはバイトの事実を学校側に知られ、数日間の停学処分を命じられる。それは、そのまま内申書へと直結し、咲羅の大学進学に不可欠な、奨学金を獲得するという目標を絶望的にしてしまうだろう。この負の連鎖を何度も頭にめぐらせた咲羅は、何か妙案をひねり出さなければと思い悩んだ。しかし、これといった解決策を導き出すことはできなかった。
翌日の月曜日、咲羅は早朝の美術室には行かなかった。可能な限り、安藤から身を隠そうと考えていた。しかし、そんな彼女をあざ笑うかのように、その日突然の時間割変更により、美術の授業が組み込まれた。
授業は視聴覚室で行われた。遮光カーテンで暗くした教室で、安藤はスライドを操作し、スクリーンに映し出された絵画の説明をしていた。咲羅は一番後ろの席で、背をかがめて潜むようにして参加していた。
やがて、授業終了を告げる鐘が鳴った。カーテンが開け放たれ、室内にまばゆい光が照り込んだ。退室する生徒の群に紛れ、咲羅は足早にその場を立ち去ろうとした。安藤はスライドを片付けながら、きょろきょろと辺りを見回していた。そして彼の目は、咲羅を見つけた。
「吉岡。昼休み、話があるから美術室に来なさい」
****
昼休み、咲羅は法廷に出廷する被告人の心境で美術室の前に来ていた。そろそろとドアを開けると、いつものように、窓際にたたずむ安藤の背中が視界に飛び込んだ。
彼は背後の気配に気付き、咲羅のほうへ振り向いた。以外にも、表情が穏やかだった。今から咲羅を詰問しようという感じではない。そのため咲羅の緊張は解け、バイトの事実を尋ねる彼の問いかけに対し、あっさりと認めてしまった。
安藤は穏やかな表情のまま、
「僕はね、許可さえ取れば、長期休暇でなくてもアルバイトをやってもいいと思うんだ。でもこの学校の校則では、それは絶対に認められないことで、僕にそれを変える力はないんだよ」
咲羅は固唾を呑んで、自分に下される判決を待った。彼は笑みを浮かべ、
「だから僕は、あの日君が働いていた店に行かなかったことにするよ」
「えっ・・・・・・」
「バイトしてる吉岡を見なかったことにする」
<先生、大好き!>
咲羅は心の中でそう叫んだ。
「でも先生、よくあんな目立たない店に来ましたね」
「僕の友人の行きつけの店なんだ。その日、近くの広場でアートフェスティバルというイベントがやってただろ?僕たちは、そのイベントの実行委員だったんだ」
「そうだったんですか」
「しかしあの店はうまかったから、もう行けないのかと思うと残念だよ。君のバイトを容認してる姿を誰かに目撃されたら、それはそれで問題が発生してしまうからね。吉岡の働きっぷりも、もう少し見てみたかったんだけどな」
そう言われ、咲羅はいちいちときめいた。そんなことに彼は気付かず、言葉を続ける。
「それにしても吉岡はまじめだね。ずいぶんがんばるんだな」
「校則違反をしてる時点でまじめとは言えませんが、バイトは楽しいです」
「それならいいんだが、疲れないか?担任の先生に聞いたら、吉岡の成績はいつも学年で二十位以内に入ってるそうじゃないか」
「私なんて大したことありません。梅田君は、いつも五位以内に入ってますから」
「梅田はそんなに成績がいいのか。吉岡が無理をしてないなら、それでいいんだ。ちょっと君の体が心配だったもんだから」
そんな優しい言葉をかけられ、じーんとした。何だか気恥ずかしくもなり、安藤を正視できず、咲羅の目は泳いだ。そして、ふと準備室の中に焦点が結んだ。彼女の場所からコーヒーメーカーが見えた。その機械にはめ込まれたガラスポットの中に、黒い液体が入っているのが確認できた。ちょうどカップ一杯ほどの量である。室内に立ち込める芳香がないことから、だいぶ前に入れたものだと分かる。早朝の美術室で二人分のコーヒーを入れ、窓際にたたずみ、自分の到着を待つ安藤の姿を咲羅は想像した。彼女が甘い気分に浸っていると、それを壊すように予鈴が鳴った。
咲羅が教室に戻ろうとしたとき、安藤は咲羅を呼び止めた。
「一つ大事なことを言い忘れた。バイトにはどうやって行ってる?もし徒歩なら、それだけはやめてくれないかな。せめて自転車で行ってほしい。あの界隈は酔っ払いが多いし、安全とは言えないよ。もちろん自転車が百パーセント安全とは言い切れないが、歩きよりはいい。もしくは家族や友達、彼氏に迎えに来てもらうんだ」
「私、彼氏なんていません!」
むきになって訂正したことを、咲羅は後悔し、赤面した。しかし安藤は、咲羅の動揺に気付かない。ただ、彼はいつも見せる穏やかな笑顔を浮かべ、
「いいかい。夜一人で歩かない。約束だよ」
諭すような口調で繰り返した。
翌日の月曜日、咲羅は早朝の美術室には行かなかった。可能な限り、安藤から身を隠そうと考えていた。しかし、そんな彼女をあざ笑うかのように、その日突然の時間割変更により、美術の授業が組み込まれた。
授業は視聴覚室で行われた。遮光カーテンで暗くした教室で、安藤はスライドを操作し、スクリーンに映し出された絵画の説明をしていた。咲羅は一番後ろの席で、背をかがめて潜むようにして参加していた。
やがて、授業終了を告げる鐘が鳴った。カーテンが開け放たれ、室内にまばゆい光が照り込んだ。退室する生徒の群に紛れ、咲羅は足早にその場を立ち去ろうとした。安藤はスライドを片付けながら、きょろきょろと辺りを見回していた。そして彼の目は、咲羅を見つけた。
「吉岡。昼休み、話があるから美術室に来なさい」
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昼休み、咲羅は法廷に出廷する被告人の心境で美術室の前に来ていた。そろそろとドアを開けると、いつものように、窓際にたたずむ安藤の背中が視界に飛び込んだ。
彼は背後の気配に気付き、咲羅のほうへ振り向いた。以外にも、表情が穏やかだった。今から咲羅を詰問しようという感じではない。そのため咲羅の緊張は解け、バイトの事実を尋ねる彼の問いかけに対し、あっさりと認めてしまった。
安藤は穏やかな表情のまま、
「僕はね、許可さえ取れば、長期休暇でなくてもアルバイトをやってもいいと思うんだ。でもこの学校の校則では、それは絶対に認められないことで、僕にそれを変える力はないんだよ」
咲羅は固唾を呑んで、自分に下される判決を待った。彼は笑みを浮かべ、
「だから僕は、あの日君が働いていた店に行かなかったことにするよ」
「えっ・・・・・・」
「バイトしてる吉岡を見なかったことにする」
<先生、大好き!>
咲羅は心の中でそう叫んだ。
「でも先生、よくあんな目立たない店に来ましたね」
「僕の友人の行きつけの店なんだ。その日、近くの広場でアートフェスティバルというイベントがやってただろ?僕たちは、そのイベントの実行委員だったんだ」
「そうだったんですか」
「しかしあの店はうまかったから、もう行けないのかと思うと残念だよ。君のバイトを容認してる姿を誰かに目撃されたら、それはそれで問題が発生してしまうからね。吉岡の働きっぷりも、もう少し見てみたかったんだけどな」
そう言われ、咲羅はいちいちときめいた。そんなことに彼は気付かず、言葉を続ける。
「それにしても吉岡はまじめだね。ずいぶんがんばるんだな」
「校則違反をしてる時点でまじめとは言えませんが、バイトは楽しいです」
「それならいいんだが、疲れないか?担任の先生に聞いたら、吉岡の成績はいつも学年で二十位以内に入ってるそうじゃないか」
「私なんて大したことありません。梅田君は、いつも五位以内に入ってますから」
「梅田はそんなに成績がいいのか。吉岡が無理をしてないなら、それでいいんだ。ちょっと君の体が心配だったもんだから」
そんな優しい言葉をかけられ、じーんとした。何だか気恥ずかしくもなり、安藤を正視できず、咲羅の目は泳いだ。そして、ふと準備室の中に焦点が結んだ。彼女の場所からコーヒーメーカーが見えた。その機械にはめ込まれたガラスポットの中に、黒い液体が入っているのが確認できた。ちょうどカップ一杯ほどの量である。室内に立ち込める芳香がないことから、だいぶ前に入れたものだと分かる。早朝の美術室で二人分のコーヒーを入れ、窓際にたたずみ、自分の到着を待つ安藤の姿を咲羅は想像した。彼女が甘い気分に浸っていると、それを壊すように予鈴が鳴った。
咲羅が教室に戻ろうとしたとき、安藤は咲羅を呼び止めた。
「一つ大事なことを言い忘れた。バイトにはどうやって行ってる?もし徒歩なら、それだけはやめてくれないかな。せめて自転車で行ってほしい。あの界隈は酔っ払いが多いし、安全とは言えないよ。もちろん自転車が百パーセント安全とは言い切れないが、歩きよりはいい。もしくは家族や友達、彼氏に迎えに来てもらうんだ」
「私、彼氏なんていません!」
むきになって訂正したことを、咲羅は後悔し、赤面した。しかし安藤は、咲羅の動揺に気付かない。ただ、彼はいつも見せる穏やかな笑顔を浮かべ、
「いいかい。夜一人で歩かない。約束だよ」
諭すような口調で繰り返した。