溺甘豹変〜鬼上司は私にだけとびきり甘い〜
だから台風が迫っている中でも、みんな無心で仕事をこなす。オフィスに響くのはカタカタというパソコンの音と、秒針のみ。はたから見たら薄気味悪い絵面だと思う。
そこに普段めったに鳴らない電話が鳴った。私は慌てて受話器を取る。
「はい、株式会社Gumiです」
「俺、」
……俺?
「あぁ、九条さん。お疲れさまです」
ていうか、“俺”って。家に電話してるんじゃないんだからと思いながらも、どうしたんですか?と問いかけた。
「電車止まる前に帰れよ。けっこうやばそうだから」
「えっ、いいんですか?リリースは明後日……」
「わかってる。だから明日は早朝にこい。他の奴らにもそう伝えておけ」
それだけ言うとガチャっと電話は切れた。
私はプープーと虚しい音が聞こえてくる受話器に向かってもうっ、と吐き出した。もっと言い方ってやつがあるでしょ。本当、口が悪いんだから。
「九条さん何だって?」
受話器を置く私の側に、ユリさんが椅子を転がしながらすかさず寄ってきた。
「もう帰れって。で、明日は早朝から来い、だって」
「まじ? やったー! じゃあ私帰ろうっと」
そう言うとユリさんは大きく伸びをしながら立ち上がった。そしてそそくさと帰り支度を始める。
「早朝って何時ですか?」
少し離れた場所から真壁くんがそう聞いてきた。
「あ、ごめん。そこは聞いてないけど、逆鱗に触れない時間、とでも」
「うわ〜曖昧」
「ご、ごめん。それより真壁くんはゆっくり寝て早く風邪治してね」
「はーい」
じゃあお先でーす、と真壁くんはリュックを背負い事務所を出て行った。それに続くようにユリさんも、八乙女さんも事務所を後にする。取り残された私は一人ぼんやりと窓の外を眺めていた。
相変わらずの物言いに少しムカッときたけど、九条さんは大丈夫なんだろうか。さっき電話の向こうは凄い風が吹いていた。クライアント相手だと私達みたいに帰れないだろうし。少し心配になった。