それでもあなたを愛してる
翌日、社長室で仕事をしていると、伊藤が慌てた様子でやって来た。
『ねえ、真崎くん。これからA社に渡す契約書に社長の直筆のサインが漏れてるって、営業部から言われたんだけど』
伊藤が持ってきた契約書を見ると、確かに代表取締役の署名欄のところが空白になっていた。
『悪い。俺のミスだな。A社とのアポって何時からだって?』
『夕方の6時らしいわ』
『そうか。なら、今から社長のとこに急げは、ギリギリ間に合うな。もらいに行ってくるよ』
こんなミス…普段ならしないのだか、激しい頭痛と目まいで集中力を欠いていたのかもしれない。
会社の実印なら預かっているのだが、社長直筆のサインとなるとやはり病院に行くしかないだろう。
俺は頭を押さえながら立ち上がった。
すると、
『私も行くわ。今からタクシー呼ぶより、私が営業車を運転した方が早いでしょ。それに、真崎くん、調子悪そうだから心配だしね』
伊藤がそう言って、出る準備を始めた。
『悪いな。助かる』
確かに今の俺には、確実に時間内に戻ってこれるという自信はない。
俺は伊藤の言葉に甘えることにした。
こうして、彼女の運転で病院へと向かい、無事に社長のサインをもらうことはできたのだが…。
俺は大事なことを忘れていた。
今日の夕方、佐奈と光輝が病院に来るということだ。
自分で頼んでおいたくせに、頭からすっかり抜け落ちていた。
マズいな。
今日は伊藤につけてもらう指輪だって用意していない。
鉢合わせしないうちにと、急いで病室を出たのだけれど、エントラスを出る直前、二人が入口に向かって歩いて来る姿が見えた。
俺は咄嗟に伊藤の左手を掴む。
彼女の指輪のない薬指を隠す為だった。
佐奈が気づかなければ、そのまま通り過ぎるつもりだったけれど…。
『圭吾…』
佐奈の声に思わず足を止めた。
『何だ。もう帰るのか?』
隣の光輝が尋ねてきた。
『ああ、もう俺達の用は済んだから。それじゃ、佐奈のこと宜しくな』
できるだけ佐奈から顔を背けた。
ちょうど目まいもしてきて、きっと酷い顔色をしていると思ったから。
佐奈にだけには、何も気づかれたくなかったのだ。
『真崎くん、大丈夫?』
助手席でうずくまる俺を、伊藤が心配そうにのぞき込む。
『ああ…。悪い。大丈夫だから車だしていいよ』
『そう…。分かったわ。でも、真崎くん、そんな状態で病院に行かなくて大丈夫なの?』
『明日…ちょうど通院日だから……相談してくるよ』
絞り出すような声で答えると、伊藤は運転席で静かに泣いていた。