お願い!嫌にならないで
事務所へ向かう廊下で、正面から水野さんが歩いてくるのが見えた。
徐々に近付いてくる水野さんは、少し焦っている。
「お疲れ様です」
「あっ、辻さん。お疲れ様です」
「もう帰るんですか?」
「いえ。これからお客さんのところへ行ってきます。今日中に、この書類とサンプルが欲しいって、仰るので」
そう言って、うちの会社のロゴの入った白い紙袋を、顔の横でブラブラさせる。
「今日は、そのまま直帰させてもらいますね」
「直帰って、もしかして歩いていくんですか?」
「はい」
彼女は確か、電車通勤のはずだ。
今は19時前で日も落ちてきて、暗くなっている。
心配になっていると、水野さんはにっこりと笑う。
「いつもの帰り道の途中にある業者さんなので。見慣れた道を帰るだけですよ」
心を読まれたと思った。
それとも、俺の顔に出ていただけか。
「それでは、急ぎますので。また明日」
水野さんはペコリと頭を軽く下げて、俺の横を通り過ぎようとした。
それに対して、俺は「水野さん」と咄嗟に呼び止めていた。
水野さんは立ち止まり、俺を振り返る。
「なんですか?」
「いや、あの……俺、一緒に行きましょうか」
咄嗟に言ってしまっていた。
心配から来るのも、もちろんだったのだが、変に胸騒ぎがしていたからだ。
何の根拠も無いのに。
唐突な俺の台詞に、水野さんは驚きで動きを止めていた。
そして、柔らかい表情に戻ると、首を横に振る。
「大丈夫ですよ。辻さんも、やることがあるでしょうし」
「それは、別に明日でも――」
「先延ばしは、いけませんよ。私のことなら、お気になさらず。駅前にある業者さんなので、大丈夫」
「……そうですか? では、お気をつけて……」
微笑んだ水野さんの背中を見送った。
この数時間後に、1人で行かせたことを後悔することになるとは、知る由もなく。