黎明皇の懐剣


(将軍カンエイは私達が白州に行きたいことを、既に読んでいる。ならば)

 ティエンは後ろを一瞥する。
 そこには荒呼吸を繰り返し、うわ言を漏らすユンジェの姿。時折、か細い声で自分の名前を呼ぶので心が痛くなる。一刻もはやく休ませてやりたい。

「カグム、青州の関所は本当に通れないのか」

「いえ。難しいというだけで、通れないわけではございません」

「だったら目的を変更すべきだ。向こうに行き先を読まれている以上、白州の関所は極めて危険。お前達の仲間が謀反狩りに遭っている可能性もある」

 そんなところに、傷付いたユンジェを連れて行けるわけがない。ティエンは地図を見下ろし、青州の道のりを指でなぞった。

(山ばかりだな。山は森林より日夜の気温差が激しい。ユンジェが耐えられるかどうか)

 それでも、白州より生きる道が強いのであれば、そちらを選ぶしかない。

「問題は将軍カンエイを撒かねばならない点か。よし、来た道を戻るか」

 それはつまり、将軍カンエイ達と対面するということに繋がる。カグムは即座に却下を申し出た。

「死に行くようなものです。この数で勝てるとお思いですか」

「誰が戦に挑むと言った。私は来た道を戻る、と言ったのだ」

「見つかればどうなると思っておられるのですか」

「そんなもの、馬鹿でも分かる。だから、見つからないように戻ればいいだろう?」

 ティエンが嘲笑する。それにカグムは何を思ったのか、身分も立場も忘れ、素で睨みつけてくる。

「ピンイン、お前の案はただの考えなしだ。当てずっぽうで物を言うんじゃない」

「はっ。このまま白州の関所に向かい、敵中の策に嵌るより、ずっとマシだ」

 口論する両者の間に凍てついた空気が流れる。慌ててハオが口を挟んだ。

「お、落ち着いて下さいピンインさま。カグム、お前もらしくねーぞ。最後まで話を聞いてから意見しろ。時間がねーんだから」

 その通りだ。時間がないことを忘れはならない。ティエンは地図を閉じると、頭陀袋に入れて立ち上がる。

「相手は周りをよく見て動く。その判断のもと、私達を追っているのであれば、裏を掻くしかあるまい」

 カグムが言うように、追われる者が来た道を引き返すなど自滅行為であろう。しかし、知将相手ならば、それくらいしなければ撒けないとティエンは考えている。

 このまま前に進んでも、いずれ追いつかれることだろう。
 ティエンが言ったように、挟み撃ちの考えだってある。相手は追い込みの天才だ。こうしている間にも、ネズミの自分達を少しずつ囲んでいるやもしれない。

「見つかれば、確実に死ぬぞ。ピンイン」

「見つからなければ、確実に生き延びる。そうではないか?」

 どの道を取っても危険なのだ。
 今さら、四の五の言っても仕方がない。ティエンは誰にどう言われようが、ユンジェと共に生きたいのだ。死ぬことは、とても怖いことだから。

「見つかるようなヘマはしない。いや、してはならないんだ。兵と鉢合わせになれば、ユンジェが使命に駆られ、無理をすると分かっている」

 ついに折れたのだろう。異論はないと告げ、カグムは軽くため息をついた。

「ピンインさま。ひとつ確認です。ここまでご熱心に意見して下さる、ということは、こちら側の人間と見ても宜しいでしょうか?」

 カグムが探りを入れてくる。なにか裏でもあるのでは、と疑っているのだろう。ティエンは眉を顰め、冗談ではないと突き返した。

「私はユンジェを救いたいだけだ。その子を守るためなら、なんだってするさ」

 そう、いまのティエンにはそれだけなのだ。怨みも憎しみも、自分の私情に過ぎない。優先すべきことは他にある。

 ティエンはユンジェの頭陀袋を開けると、使えるものを探る。子どもはいざという時に備え、色んなものを作っている。きっと今回も役立つものがあるはずだ。

「ああ。これは使えるな」

 大きな葉に包まった布袋を数個見つけたので、兵達に投げ渡した。受け取ったハオが「これは?」と、尋ねてきたので、目つぶしだと簡単に答える。

「ユンジェお手製の目つぶしだ。改良されてあるから、以前より威力は強い」

 敵に見つかったらそれを使え、とティエンは布袋を指さした。葉を取ると粉が飛び散るから注意するように、と言葉を添える。

「確か、砂と粉山椒と塩に加え、唐辛子を入れたと言っていたな。なんでも、顔に当てることで、目だけでなく鼻や口にも痛みを与える狙いだとか」

 呼吸器官を狙ったら、追っ手は上手く走れないだろう。これなら、前よりもずっと逃げ切る希望が持てる、とユンジェは得意げに語っていたものだ。
 それを聞いたハオは、見事に顔を引き攣らせる。

「え、えげつねえ物ですね。目だけじゃなくて、鼻や口まで狙うなんて」

「ユンジェは頭が良いんだ。自分の弱さを知っているからこそ、不意打ちで相手の弱点を突くことが上手い」

 聞こえは良いが、要するに卑怯が得意なのでは。それで痛い目に遭ったことのあるハオは、遠い目で目つぶしを眺めた。

 そんな彼の手に、ティエンはもう一つ、目つぶしを押し付ける。みな、一個ずつであるが、ハオだけ二個託された。その意味は。

「これはユンジェの分だ。お前は患者を診ることができる。あの子はお前の傍が良いだろう」

         
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