黎明皇の懐剣
「おおっ。ティエンが馬を操ってる」
馬に乗ったユンジェは歓声をあげる。
以前、ティエンから馬に乗れると聞いていたものの、じつは半信半疑であった。非力で体力のない彼が馬を操れるのか、些か疑問を抱いていたのである。
けれど、彼の馬に乗ることで、それはまことのことだと信じることができた。
前に乗るユンジェは手綱を握るティエンに振り返り、「すごいな」と心底感心する。彼はやや誇らしげであった。
「このまま馬を奪ってやりたいんだがな」
「うーん、それは無理じゃないかな。囲まれているし」
両隣後ろには馬が張り付いていた。逃走を防止するための包囲網だろう。前へ逃げようったって、これではすぐに追いつかれてしまうに違いない。
まあ、今のユンジェの心配事はカグム達ではなく、陶ノ都にあるので、あまり気にならない。
「何事もないと良いんだけどな」
「ユンジェ。さっきの話になるが、呼ばれている気がする、と言ったな。詳しく良いか?」
謀反兵達は聞き耳を立てているようだ。視線が何度も配られる。
「俺もよく分からないんだ。今までは、なんっつーのかな、ティエンに危機が迫ると恐ろしさを抱いた。将軍タオシュンの時は悪夢を見たし、将軍カンエイの時は迫ってくる恐怖を感じた」
またティエンに向けられた敵意や悪意を感じ取ると、それ相応の行動を無意識のうちに起こした。彼に刃物を向けられたのであれば、ユンジェはそれを叩き折っていたし、矢を放れたのなら、それを弾き落とした。
ティエンの声が戻ったのも、彼の喉に掛けられた呪術が、ユンジェに視えるようになったからだ。それまでユンジェはティエンの喉に巻きついた蛇の呪術が視えなかった。
懐剣を抜いて、はじめてそれが視えるようになったので、やはり己は所持者の災いを感じ取ることができるのだろう。
「ただし、それはあくまでティエンの身の危険にまつわる災いなんだと思う。現に俺は、追って来るカグム達を感じ取ることはできなかった。力だって発揮できない。俺はカグムにそれを見破られて負けている」
「利用する人間は災いにならないのか。おかしな話だな。麒麟の目は節穴か」
毒づくティエンに苦笑し、ユンジェは話を続ける。
「それが今までの経験。だけど、今回はちょっと違う。恐怖を感じる一方で、俺はあの都に呼ばれている。声が聞こえるような気がするんだ。こんなこと初めてだ……いや、俺は知っている気がする。この感じ」
言葉にすればするほど、胸騒ぎと混乱が強くなる。やっぱり陶ノ都には行きたくなかった。できることなら、今すぐにでも引き返してもらいたい。
「ユンジェ、お前は私の懐剣だ。何が遭っても手放さないよ。献上だってさせるものか。お前を懐剣にした責任は最後まで取るよ。だから安心しなさい」
「けん、じょう?」
初めて聞く単語に、それはどういう意味だと尋ねる。ティエンは横目で右隣を一瞥すると、どこ吹く風でカグムが訂正を入れた。
「貴方様から言う場合は賜でしょうね。どうぞ、ユンジェをホウレイさまに下賜されて下さい」
「ユンジェ。都に着いたら、贅沢をしような。陶ノ都は点心で有名な都でもあるから、お前の好きな桃饅頭以外にも美味しい点心が売っているぞ。路銀もあることだし、昼餉は点心にしても良いだろう。小籠包なんてどうだろうか」
「俺は焼売を推しますけどね。小籠包は食いにくいでしょう」
「貴殿に申し上げていないのですが。カグム」
「ただの独り言です。お気になさらず」
温度差のある会話に挟まれ、ユンジェは困ってしまう。助けを求めようとしたって、他の兵達は前を向いて馬を歩かせるだけ。
しかし、取り巻く空気は物語っている。王子の機嫌はお前に任せた、と。
ずるい。心の底から叫びたくなった。