黎明皇の懐剣


 ◆◆


「これが『おはよう』で、こっちが『おやすみ』で。えっと、『こんにちは』ってどう書くんだっけ?」

 ユンジェはティエンに、字の読み書きを習い始めた。

 これは彼の提案である。文盲のユンジェに、少しでも読み書きができればと、身近な物の単語を地面に書いて教えてくれるようになった。

 字が読めず、損ばかりしてきたユンジェなので、喜んでその案に乗った。

 読み書きの代わりに、ユンジェはティエンに生きる術を教える。畑仕事はもちろん、料理や火の熾し方、刃物の研ぎ方。狩りのやり方などなど、生きていく上で必要な知識は、すべて彼に教えた。
 
 そうそう。ティエンはとても狩りが上手い。どうやら弓の経験者のようだ。彼にそれを持たせると、百発百中で獲物を射る。ユンジェなんて足元にも及ばない。

「ティエンに狩りなんて教えるんじゃなかった。俺の出る幕ないじゃんかよ!」 

 あまりにも上手いので、ユンジェはその腕に嫉妬し、こんなことを言ってしまう始末。ティエンから大笑いされてしまった。


 二人で足りないところを補い合いながら暮らしていく内に、ユンジェにとって、ティエンはいつの間にか、かけがえのない兄のような存在となっていた。


 はじめこそ、世話の焼ける大きな弟ができたと思っていたが、ユンジェの精神面はいつもティエンが支えてくれた。
 理不尽な物々交換の取引時や、物がまったく売れなかった時、狩りの獲物を大人達に横取りされた時など、いつも彼が傍にいて慰めてくれた。

 口が利けなくとも、優しい目でユンジェを支えてくれる。
 そんな目に甘えたくなる自分がいるので、認めざるを得なかった。彼は弟ではなく、兄のような存在だと。

 一度認めてしまうと、小さな欲が出た。彼と言葉で会話をしてみたい。どんな声で、どのように喋るのか、とても気になったのである。

 思いが優り、ユンジェは何度か、ティエンに医者に行こうと誘ったことがあった。

「ティエン。医者に診てもらおう。俺、少しだけ髪が伸びたから、金は作れるよ。声が戻るかもしれない」

 しかし、ティエンは声の話になると、諦めたようにかぶりを横に振る。医者に診てもらったら、声が出ない原因が分かるかもしれないのに、彼は遠慮を示す。

 戻らないと分かっているようなのだ。

 ティエンはユンジェの気遣いに、いつも曖昧に笑う。そんな顔を向けられたら、無理に意見を押し通すこともできない。

(ちゃんと話してみたいんだけどなぁ。もし声が戻ったら、ティエンの本当の名前を呼べるのに)

 それだけではない。ティエン自身のことも、たくさん聞くことができるのに。

 ユンジェにすっかり心を許し、自分を可愛がってくれるティエンだが、ひとつだけ、未だに許されない行為がある。

 それは彼の懐剣に触れることだ。

 あれはとても大切な物らしい。ユンジェの頼みであろうと、決して触れることは許さない。いつも肌身離さず持っている。

(ティエンはあれを、簡単に抜けるんだよな。どうしてだろう?)

 一度、鞘から抜こうと試みたことがあるユンジェは、懐剣を見る度に首を傾げてしまう。
 非力なティエンに抜けて、彼より力のあるユンジェに抜けない理由なんて、皆目見当もつかなかった。



 ティエンと初めて迎えた、冬のある日。

 薪づくりに精を出していたユンジェは、ティエンの様子がおかしいことに気付き、作業の手を止めた。
 彼には細かく切り分けた木を束ね、広い場所まで運んでもらう仕事を任せている。もしや、運ぶ最中に足でも挫いたのだろうか。

「ティエン。何か遭ったのか?」

 声を掛けると、彼は焦燥感を隠すこともなく頷き、しきりに地面へ目を配っている。
 口が利けないティエンと、毎日過ごしているユンジェだ。彼の主張は態度で分かる。

 青ざめた顔で地面を見ている。

 ということは、何かを落としたのだろう。彼をここまで焦らせているのだ。ユンジェはティエンの帯を一瞥し、彼の落し物を把握した。

 たばさんでいる筈の懐剣が無くなっている。

(帯に挟んで作業したら、いつか落とすからやめとけって注意していたのになぁ。作業中は集中していることが多いから、落とした音にも気付きにくいのに)

 普段は懐に入れて持ち歩いている懐剣だが、体を動かす時は邪魔になっているようで、帯にたばさんでいることが多い。ティエンの悪い癖だ。

「手分けして探そう。二人で探せば、すぐ見つかるよ」

 すると、ティエンは自分ひとりで大丈夫だと両の手を振ってくる。薪づくりを中断させては申し訳ないと思ったのだろうが、考えが甘い。

「あれ、鞘に綺麗な石がついているから、大人が見つけたら絶対に盗まれるぜ。ここらへんには、狩人や俺達のように薪を作る農民がうろついている。もし持ってかれたら、お前どうするんだよ。大切なんだろ?」

 急いで探すべき理由を教えると、ティエンは一層、青白い顔になった。よほど大切な物なのだろう。一緒に探して欲しい、と深く頭を下げてきた。

 水くさい奴だ。落し物を探すくらい、なんてことないのに。

 ティエンには運んでいた道を辿ってもらい、ユンジェは彼が木を束ねていた場所で、懐剣を探す。
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