黎明皇の懐剣
ティエンの指が、蓑に向けられる。念のために雨具を持って行け、と伝えているのだろう。
しかし、ユンジェは荷物になるから要らない、と返事した。
「お前が持っとけよ。もし雨が降ったら、それを着て仕事をしたらいい。衣が濡れると動きにくいからな」
今度はじっと見つめられる。その目を見つめ返し、ユンジェは笑った。
「ひとりでも大丈夫だって。今日は金で油を買うから、平等に扱ってくれるはずだよ。だけど騙されないようにしなきゃな。あそこの店主、値札が読めないとすぐ、巻き上げようとするから」
腰にさげた布袋から銭を出すと、手の平で数える。
大体これくらいだろう。一生懸命に数えた硬貨をティエンに見せると二枚、手の平から硬貨を取り上げられる。
なるほど、少々多かったようだ。危うく油屋の主人を喜ばせるところだった。
「……金の数え方って難しいな。物々交換が多いもんだから、いざ金で買うとなると、いくら用意すればいいのか分からなくなるよ。あっ、そんな顔をするなってティエン」
字が読める彼は、一緒に行くべきではないか、と憂慮を見せた。ユンジェが騙されないかどうか、心配でならないのだろう
「だっ、大丈夫だってティエン! お前に数の読みは習ったんだ。あ、あんまり大きな数字は分からないけど、油くらいなら騙されずに買えるって」
こういう場合、ユンジェが畑へ。そしてティエンが町へ行き、油を買った方が心配事も少なくなるだろう。
けれども、ティエンは口が利けない。そこにつけ込む商人も多いため、彼だけで買い出しに行かせることは、とても難しい。
また雨が降る前に、畑仕事を終わらせたい。ユンジェ一人で行くのが一番なのだ。
「じゃ、行ってくる。畑を頼むな」
小壷を持って足軽に家を出ると、ティエンが後を追って来た。
何か忘れ物でもしたのかと思いきや、頭をぐしゃぐしゃに撫でられる。ついでに鼻を抓まれた。からかっているようだ。
「ティエンっ、お前なっ!」
どうかしたのか、と首を傾げてくる彼は、すっとぼけた顔で見つめてくる。そんな顔をしたところで、ユンジェには通用しない。
「お前の目を見てりゃ、何が言いたいのか、すぐに分かるんだよ! くそっ、子ども扱いしやがって! 俺はもう十四だ。たとえ騙されたとしても、泣いて帰ってくるもんか!」
ティエンがおかしそうに頷いてくる。はいはい、とでも言っているのだろう。
すっかり兄分の顔で、ユンジェを見送ってくれる。
悔しいが、こういうやり取りは嫌いではない。心のどこかで甘えたくなる自分がいる。
ふと、ティエンの帯に目を向ける。
そこには例の懐剣がたばさんである。落とせば血相を変えるくせに、帯に挟む癖は何度言っても直らないのだから、困ったものだ。
(……あれ以来、あの懐剣には触れていないなぁ)
ティエンが顔を覗き込んできた。
我に返ったユンジェは、何でもないと顔を振り、今度こそ家を出発する。
一度だけ、足を止めて振り返る。ティエンが笑顔で手を振っていた。それに大きく振り返すと、ユンジェは町を目指し、森へと入った。